タンジェ
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タンジェ
????
Tangier



市章

位置

タンジェ=テトゥアン=アル・ホセイマ地方(薄い赤)
とタンジェ=アシラー県(赤)の位置
位置
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}タンジェタンジェ (モロッコ)モロッコの地図を表示タンジェタンジェ (アフリカ)アフリカの地図を表示

座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度46分 西経5度48分 / 北緯35.767度 西経5.800度 / 35.767; -5.800
行政
モロッコ
 地域タンジェ=テトゥアン=アル・ホセイマ地方
 県タンジェ=アシラー県
 市タンジェ
市長Mounir Lymouri [1]
(真正と現代党[1]
地理
面積 
  市域199.5 km2
標高80 m
人口
人口(2014年現在)
  市域947952[2]
  備考国勢調査
その他
等時帯中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
郵便番号90000
ナンバープレート40[注釈 1]
公式ウェブサイト : [1]

タンジェ(ベルベル語: ??? ???? Tin Iggi、アラビア語: ????‎ ?an?a、発音 [t?and?a]、フランス語: Tanger、スペイン語: Tanger タンヘル、ポルトガル語: Tanger タンジェル、英語: Tangier またはTangiers)は、モロッコ北部にある都市。人口は、約95万人(2014年)。ジブラルタル海峡に面した港町で、スペインジブラルタルなどから多くフェリーが行き来し、国際都市として栄えている。タンジールの表記も見られる。
歴史

紀元前4世紀頃にカルタゴによって設けられた交易拠点が起源となる。紀元前146年にカルタゴが滅亡するとタンジェはローマ帝国マウレタニア・ティンギタナ属州)となった。タンジェは発展し3世紀頃にはマウレタニア・ティンギタナ属州の州都となった[3]5世紀にはヴァンダル王国に征服され、6世紀前半のユスティニアヌス1世の時代に東ローマ帝国の支配を経て[3]711年イスラム教勢力のウマイヤ朝が征服した[4]740年頃のベルベル人の反乱(英語版)の結果、ウマイヤ朝から独立[5]8世紀後半にはイドリース朝がモロッコで興りイドリース朝の支配下となるが、951年には後ウマイヤ朝によって占領され[注釈 2]1075年にはムラービト朝が、1149年にはムワッヒド朝が、1275年にはマリーン朝によって占領された[3]タンジェのイングランド軍の要塞・港を描写した1680年の版画

キリスト教徒によるレコンキスタ(再征服運動)の進展にともない、1415年にはアフリカ北岸のセウタポルトガル領に組み込まれ[注釈 3]、タンジェも1471年にはポルトガル領となった[3]1661年、ポルトガル王女カタリナイングランドチャールズ2世の結婚による持参金代わりに一時的にイギリス領になってしまったが、1679年頃にアラウィー朝スルターンムーレイ・イスマーイールの命令によってアリ・ベン・アブドゥッラー・エル=リッフィー率いる軍がタンジェを包囲[注釈 4]1684年2月5日[注釈 5]にはイングランドはタンジェ要塞の維持費が高いことを理由にアラウィー朝に引き渡しアラウィー朝が占領する[3]

帝国主義の時代になると、モロッコがフランスドイツの角逐の場となり、1905年3月31日にはフランスのモロッコ支配を阻止しようとするドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がタンジェに上陸した。このタンジェ事件(第一次モロッコ事件)は翌1906年アルヘシラス会議で妥協が図られた[3]が最終的な決着はつかず、1911年のアガディール事件(第二次モロッコ事件)を経て、モロッコはフランスにより保護国化され、タンジェは国際管理地域とされた[4]。タンジェの国際管理化は第一次世界大戦での中断を経て、1923年12月18日パリ会議でフランス、スペインイギリスの三国による条約が締結され、1925年より開始された。後に条約にイタリアポルトガルベルギーオランダアメリカソビエト連邦も加入した[3]第二次世界大戦勃発後の1940年6月、スペイン軍はタンジェに侵攻し、一方的にスペイン保護領モロッコへの併合を宣言した[3]。しかし世界大戦終結から半月後の1945年8月31日、タンジェは国際管理地域に復帰した。1956年10月、フェダラ会議にて条約加盟各国はタンジェの国際管理終結を決定。1956年12月31日をもって国際管理は終わり、タンジェはモロッコに復帰した[4][3]。復帰に当たり、1960年4月18日までの期限付きで為替や貿易に関する特別措置が採られている[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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