(国旗)(国章)
国の標語:Uhuru na Umoja
(スワヒリ語: "自由と統一")国歌:Mungu ibariki Afrika(スワヒリ語)
神よ、アフリカに祝福を
公用語スワヒリ語(国語、公用語)、英語(公用語)[1] [2]
首都ドドマ
最大の都市ダルエスサラーム
政府
大統領サミア・スルフ・ハッサン
副大統領
タンザニア連合共和国(タンザニアれんごうきょうわこく)、通称タンザニアは、東アフリカにある共和制国家。イギリス連邦加盟国。ケニア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、ザンビア、マラウイ、モザンビークと国境を接し、タンガニーカ湖対岸にはコンゴ民主共和国があり、またインド洋に面する。
1996年に立法府の議事堂が法律上の新首都ドドマに移転されたが、その他の政府官庁は旧首都ダルエスサラームにある。 タンザニアは東アフリカ大陸部のタンガニーカとインド洋島嶼部のザンジバルから構成され、ザンジバルは中央政府から強い自治権を確保したザンジバル革命政府によって統治されている。 また、アフリカでも有数の大自然に恵まれ、文化的にもスワヒリ語を国語とし、アフリカ在来の言語が大きな役割を果たしている数少ない国家である。 正式名称は、スワヒリ語で Jamhuri ya Muungano wa Tanzania(ジャムフリ・ヤ・ムウンガーノ・ワ・タンザニア)。英語で United Republic of Tanzania(ユナイテッド・リパブリック・オブ・タンザニア)。通称、Tanzania(タンザニア)。 日本語の表記は、タンザニア連合共和国。通称、タンザニア。漢字表記は、坦桑尼亜。 国名はタンザニアを構成するために併合したタンガニーカ(Tanganyika)とザンジバル(Zanzibar)の名前に、かつてアフリカ南部で栄えたアザニア文化
概要
国名
歴史詳細は「タンガニーカ」、「タンザニアの歴史(英語版)」、および「ザンジバルの歴史」を参照キルワ・キシワニの大モスクの遺跡19世紀半ばオマーン帝国の版図。19世紀のインド洋の覇権をイギリスと争ったオマーン帝国は、1830年代より東アフリカのザンジバルに本拠地を置いていた。
有史以前詳細は「東アフリカの政治史(英語版)」を参照
250万 - 200万年前にホモ・ハビリスが現在のタンザニアに相当する地域(北部のオルドヴァイ峡谷)に存在していたことが、ルイス・リーキー博士によって確認されている。 紀元前10世紀ごろ、現在のカメルーンに相当する地域からバントゥー系民族がタンザニアの森林部に移住した(en:Bantu expansion 7世紀にアラビア半島でイスラーム教が成立したあと、アラブ人やペルシア人が東アフリカのインド洋沿岸部に渡来し、スワヒリ文明を築きあげた。10世紀ごろから16世紀初頭にかけて、タンザニアにはキルワ島やマフィア島、バガモヨなどのスワヒリ都市が栄えた。 1498年にポルトガル王国の航海者ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓し、インド洋におけるポルトガルの覇権が始まった。ポルトガルは1505年にキルワ王国を滅ぼしたあと、東アフリカの各地を制圧した。 アラブ勢力の拡大にともない、ポルトガル勢力はオマーンによって1698年に現在のタンザニア領から駆逐され、南方のモザンビーク島にまで撤退した。その後、19世紀に入るとオマーン帝国(アラビア語: ???????????? ????????)のサイイド・サイード王が在地のマズルイ家
バンツー系の民族移動
イスラームの到来
ポルトガル領時代
オマーン帝国時代
イギリス・ドイツ植民地時代「ドイツ領東アフリカ」も参照ドイツ領東アフリカ
1880年代にアフリカ分割が始まると、カール・ペータースの活動によって1885年に大陸部にドイツ東アフリカ会社の植民地が認可された(ドイツ領東アフリカ)。