タンゴ
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「タンゴ」のその他の用法については「タンゴ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ブエノスアイレスでタンゴを踊る男女街頭でのタンゴ舞踊(2004年、ブエノスアイレス、San Telmo)ブエノスアイレスのタンゴ・ショーで踊る男女

タンゴ(tango)とは

18世紀後半にイベリア半島で発祥したある種のリズムの舞曲。

(上記ダンスパターンが19世紀後半南米に輸出され)アルゼンチンブエノスアイレスウルグアイモンテビデオダンススポットのために考案されたジャンル。

タンゴのうちでとくに名高く重要なのはアルゼンチン・タンゴ、すなわちブエノス・アイレスに起こりそこを本場として発達したタンゴである[1]
歴史

タンゴが生まれた経緯は不明だが、18世紀の後半に「tango」と記された手稿が見つかっており、盛んにイベリア半島で踊られていた。その後、スペイン帝国による植民地政策の結果としてラプラタ川河口地域の人々にこのダンスパターンが伝わり、1880年にはすでに出版譜が見つかっており、1900年以降にバンドネオンフルートなどの混合されたアンサンブルを伴ったダンススポットが強烈に流行した[注 1][2]ポピュラー音楽およびダンスの一形態で、カンドンベミロンガハバネラなど複数の音楽が混ざり合って19世紀半ばにブエノスアイレスモンテビデオ近辺のラ・プラタ川流域で生まれた。[注 2]1900年頃の写真、男同士で踊ることも少なくなかったアニバル・トロイロタンゴの録音、左の人物がアストル・ピアソラ

「アルゼンチン・タンゴは今から約130年前に、アルゼンチン首都ブエノスアイレスの港町ラ・ボカ地区から始まった」ともされる。ただ、その前から、アフリカ系アルゼンチン人のコミュニティーで、「タンゴ」 と称する音楽がはやっていた。アルゼンチンタンゴ・ダンスはスペインイタリアからの貧しい移民フラストレーションのはけ口として、ボカ地区の酒場で生まれた踊りといわれる。日頃の不満を歌にし、「最初は単身赴任の男性達が酒場で荒々しく男性同士で踊った」とも「娼婦を相手に踊られるようになった」ともいわれる。しかし、実際には記録はほとんど残っていないため、正しいことはわかっていない。ただ、リズムに関してはキューバのハバネラ、ヨーロッパ伝来のワルツ、アメリカ伝来のフォックストロット、アフリカ起源で南米のいくつもの国に広がったカンドンベ、アルゼンチンのパンパで生まれたミロンガなどが、初期のタンゴに影響を与えた。
1880年 - 1919年

1880年、現在譜面の残る最初のタンゴ 『バルトーロ』(Bartolo) が出版される。(これにも諸説がある)

1880年代、ギターとフルートのヴァイオリンのアンサンブルだったタンゴに
バンドネオンを入れる楽団が出てくる。

1897年、ロセンド・メンディサーバルが『エル・エントレリアーノ』を作曲する。

1903年、アンヘル・ビジョルドが、『エル・チョクロ』を作曲する。

1910年、エル・カチャファス(El Cachafaz。本名:Ovidio Jose Bianquet)が最初のタンゴ学校を開く。後にカチャファスは、アメリカヨーロッパに渡りタンゴの普及に努めた。

同時期、アルゼンチン上流階層の芸術家によりヨーロッパに紹介、カトリック教会が禁止令を出さねばならぬほどパリで大流行。

この時期、ドイツからアルゼンチンにバンドネオンが大量に輸入され、バンドネオン使用の定着がタンゴの特徴となる。

1917年、ロベルト・フィルポ楽団により、ヘラルド・マトス・ロドリゲス作曲のタンゴの『ラ・クンパルシータ』が初演される。

1917年頃、“タンゴの神様”と言われる歌手カルロス・ガルデルがブエノスアイレスに現れる。

この頃、タンゴ楽団の楽器について、すなわちピアノバンドネオンヴァイオリンコントラバスという組み合わせが固まる。

1920年 - 1949年

1920年代、踊りのためのタンゴバンド大人気(代表的指揮者:
ファン・ダリエンソ)。

1925年、 フランシスコ・カナロパリ公演が大成功する。

1926年、 フアン・デ・ディオス・フィリベルトが、『カミニート』を発表する。

この頃より、ヨーロッパの楽団でタンゴを演奏することが流行する。ヨーロッパでのタンゴの勃興である。

1940年代、アルゼンチンの経済(英語版)は繁栄し、一人当たりの国民総生産額がドイツやイタリアよりも上位となった時期であった。タンゴ黄金時代の絶頂期であった。

1945年、第二次世界大戦が終わる。その前後ドイツのバンドネオン工場の多くが廃業となる。演奏家からの人気第一位であったアルフレッド・アーノルド社もバンドネオンの製造をやめてしまった。

1946年、ファン・ペロン大統領就任し、労働者の利益を重視しつつも、反対派を抑圧する政治を行う。

1948年 アニバル・トロイロ楽団が、歌のタンゴの傑作『スール』を発表。

1950年 - 1999年

1950年代、日本でもタンゴが流行し、日本国内に20を超えるタンゴバンドが存在。

1954年、
アストル・ピアソラ、パリに留学。以降次々と新しいスタイルのタンゴを発表する。

1955年9月、タンゴを擁護していたペロン政権が崩壊。タンゴ低迷期始まる。

1960年代、かつては先進国並みであったアルゼンチンの経済的地位に翳りが出てくる。モダンタンゴが根付き始める。踊るタンゴが低迷し、聞くためのタンゴが表舞台へ。

1970年、日本において民音タンゴ・シリーズがスタート。毎年、全国にてアルゼンチン・タンゴの興業が開催される。

1976年、ビデラ将軍一派が軍事独裁政権を樹立し、市民運動家らを殺害、一般に 「汚い戦争」 Guerra sucia といわれる。フォルクローレやタンゴなどの音楽家の亡命があいつぐ。

1982年、フォークランド紛争で、アルゼンチンがイギリスに敗れる。

1983年、アルゼンチンで軍事独裁政権が倒れ、民主化なる。

1983年、パリで『タンゴアルヘンティーノ』が初演され大人気となる。タンゴ復興機運が盛り上がる。

1985年、『タンゴ・アルヘンティーノ』のブロードウェイ公演成功。

1994年、フォーエバータンゴがサンフランシスコでロングランの大成功。

1995年、アルゼンチンでソロ・タンゴ開局

1997年6月19日?、ブロードウェイで『フォーエバータンゴ』で大人気となる。

1999年2月、『フォーエバータンゴ』が初来日公演

2000年 -

2003年8月、第1回アルゼンチン・タンゴ・ダンス世界大会がブエノスアイレスで開催される。

2004年6月、第1回アルゼンチン・タンゴ・ダンスアジア大会が東京で開催される。

2004年、 三重県
四日市市エフエムよっかいちで放送されていた番組「タンゴをあなたに」が、2004年9月で放送終了し、2004年12月1日からは「ブエノスディアス、タンゴでおはよう」が帯番組として放送開始。


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