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やノートページでの議論にご協力ください。タレント政治家(タレントせいじか)とは、タレントであったことによる大衆的な人気や知名度を活用して政治家になった人物のことである。
国会議員などの場合には、タレント議員とも言う。 タレント政治家については、明確な定義があるわけではない。 タレント業を生業としている者(芸能人)だけについてそう呼ぶ場合もあれば、単にメディアを通じて高い知名度があるという理由でタレント政治家と呼ばれる場合もある。メディアを通じて高い知名度があった場合には学者・作家・芸術家といった文化人や、スポーツ選手、ジャーナリスト、特に放送局の社員であって厳密にはタレントには含まれないはずのアナウンサーや記者出身の政治家などについてもそのように表現されることもある。日本においてはテレビの普及以降、高橋圭三・宮田輝・田英夫・秦豊・畑恵・黒岩祐治・丸川珠代・杉尾秀哉・小池百合子などアナウンサー・ニュースキャスター出身の政治家は増えている。彼らはメディアを通じて自身の諸活動が大衆に認知されている、というよりメディア自体が職場であった者であるが、いずれもメディアにおいて仕事をしてきた結果メディアを通じて高い知名度を得ている。またメディア側の変質もあり(高橋圭三や秦豊は放送局退社後もフリーアナウンサー・司会として長くメディアにおいて活動していた人物であり、芸能人や文化人的な一面も備えた存在であった)、選挙時にはアナウンサー出身者もタレント候補として扱われるようになっていった。 さらには本人はタレント活動を行っていなくても、親族に著名人がいる場合にはタレント政治家に準じた扱いをされることもある(例:大泉洋の兄・大泉潤(函館市長)[1][2])。 個人として高い知名度を持つタレントは、選挙のための広報活動を行わなくとも有権者に認知されるため、選挙活動においては有利に働くこともある。たとえば作家・タレントとして高い知名度を持っていた青島幸男は、選挙公報作成と政見放送録画を除いて当人や秘書や支援者は一切の選挙運動を行わなかったが、それでも毎回当選していた。 政党がタレントの擁立に走る背景としては、短期間の選挙運動で大量の得票ができるタレント候補は、選挙戦術上有効であるということや、選挙演説などで党の広告塔的役割を担ってもらうことができるということなどがある。一方で政治に関する経験や知識の少ないタレントが立候補するとの批判、および政党・政治団体タレントを立候補させることを有権者から集票するための安易な客寄せに過ぎないとの批判がしばしば行われるが、職業差別に過ぎないとの反論もある。最終的には有権者の判断次第、というのが大方の見方である。 前述のようにタレント政治家と呼ばれる政治家(あるいは候補者)には文化人やアナウンサー、あるいはタレント業を職業とするものであっても政治に関し専門的に学んだ者も含まれている。 タレント政治家の中には自らをタレント政治家と扱われたり、知名度のみで当選したとされたりすることに不満を持つ場合も少なくない。そのため選挙の際にはマニフェストなど政策の具体性を強調したり、親族あるいは友人や師弟関係にある者その他の交友の深いタレント(あるいは著名人)が応援演説を申し出てきてもあえて断ったりして、自らがその他のタレント政治家とは一線を画するとする戦術を採ることも多い。 作家やタレント等、他分野での高い知名度を持つ議員は帝国議会創設間もない時期からおり、小説「佳人之奇遇」で知られる東海散士は1892年の第2回総選挙から8回連続当選している。1908年の第10回衆議院議員総選挙に、日露戦争で対露強硬論を唱え「バイカル博士」として大衆的人気を集めた東京帝国大学教授の戸水寛人が出馬、当選している。ただし、当時の帝大教授のステータスを考えれば現在の学者出身タレント議員とは同列に出来ない面もある(当時の貴族院には帝大や帝国学士院会員の任命枠があった。また戸水は法学博士であり他の学問と比較すると政治と距離が近い)。政治講談で知られる伊藤痴遊は政治活動を開始した後に講談師となったが、東京市会や第16回衆議院議員総選挙、第18回衆議院議員総選挙で当選している。 1898年の第5回総選挙と第6回総選挙に芸術家の川上音二郎、1915年の第12回衆議院議員総選挙に歌人の与謝野鉄幹、1928年の第16回衆議院議員総選挙に作家の菊池寛らが立候補しているが、いずれも落選している。また貴族院議員の中には、画家の黒田清輝、「虎狩りの殿様」で著名となった徳川義親など、高い知名度を持ち、現在ならタレント議員と目されたような人物が幾人か存在した。前記の戸水寛人と並んで帝大七博士として有名になった小野塚喜平次も、帝国学士院枠で貴族院議員になっている。ただし徳川義親と黒田清輝は継承した爵位による就任であり、個人の声名のみで議員となったわけではない(徳川は侯爵議員なので本人の能力にかかわらず議員の地位は約束されていた。黒田は子爵議員)[注 1]。終戦後も貴族院では、ジャーナリストの長谷川如是閑、作家の山本有三や武者小路実篤といった有名人が勅選議員に任じられている。 1946年、戦後初の衆議院議員総選挙、第22回衆議院議員総選挙に大選挙区の東京1区から立候補して当選した吉本興業(東京吉本)所属の演歌師・石田一松が、一般的にはタレント議員第一号と言われている[3]。ただ石田当選時には芸能人等を指して「タレント」と表現する用法はまだ存在しておらず、石田は在職中「タレント議員」と呼ばれることはなく、専ら「芸能人代議士」と形容された。この年の選挙には作家の石川達三と元横綱の男女ノ川登三(立候補時は本名の坂田供次郎)が立候補しているが、いずれも落選している。男女ノ川の伝記を書いた川端要壽は、「今の選挙なら、男女ノ川や石川ほどの知名度があればまず当選していただろう。時代が悪かったともいえるし、国民が真面目だったともいえる」と書いている[4]。 「タレント議員」という呼称がマスコミ等で使用されるようになった契機は、職業をまさに「タレント」と称していた藤原あきが、1962年7月の第6回参議院議員通常選挙全国区において116万票の大量得票でトップ当選した際の報道であった。
概説
日本のタレント政治家
歴史