カナダのトロントにある学生寮「タルトゥ・カレッジ」とは異なります。
タルトゥ大学
キャンパスの正面
大学設置1632年
創立1919年
学校種別国立
設置者スウェーデン国王グスタフ2世アドルフ
本部所在地エストニア タルトゥ
学生数13,000
ウェブサイトhttps://ut.ee/en
タルトゥ大学(タルトゥだいがく、英語: 、公用語表記: Tartu Ulikool)は、エストニア タルトゥに本部を置くエストニアの国立大学。1919年創立、1632年大学設置。大学の略称はUniversity of Tartu。タルトゥ大学 2021 ドイツ語旧称(Universitat Dorpat)。「タルト大学」と日本語表記されたものもある[1]。 1632年10月15日にスウェーデン国王グスタフ2世アドルフによって発せられた勅書により設立された「アカデミア・グスタヴィアナ」がタルトゥ大学の前身とされる[2]。17世紀半ばのスウェーデン・ロシア間の戦争で大学は活動を停止し、17世紀末にアカデミア・グスタヴィアナ・カロリナとして再興されるが、大北方戦争の中で再び廃止に追い込まれる。スウェーデン時代の大学はバルト・ドイツ人、スウェーデン人が中心であり、学生の中に先住民であるエストニア人は含まれていなかったと考えられている[2]。大北方戦争中にリヴォニア(ラトビア・エストニアを含む地域)はロシアに編入され、リヴォニアへの大学設置運動が何度か行われたものの、開校は難航した[2]。 教育改革に着手したロシア皇帝アレクサンドル1世の治世に大学の設置が決定され、ラトビアのイェルガヴァとの競争を経て1802年12月12日にデルプト(ロシア語によるタルトゥの古称)帝国大学開設勅許状が発せられた。ソビエト連邦時代の一時期までは、アレクサンドル1世によって勅許状が発せられた日が大学の開校年とされていた[2]。デルプト大学は教師陣の多くがバルト・ドイツ人で占められており、ドイツ系大学の系統に連なるデルプト大学にはルター派神学部、ドイツ語による講義、ドイツ風の学生団体といったロシア帝国内の他の大学には無い特徴を有していた[2]。学生もバルト・ドイツ人が主だったが学校はロシア人などの帝国内の諸民族も受け入れ、19世紀半ばからエストニア人、ラトビア人の学生数も増加する[2]。 1880年代から実施されたロシア化政策の影響で大学のドイツ色は薄れて学生は多様な民族で構成されるようになり、『原初年代記』に現れる古称に由来する「ユリエフ大学」と改称された[2]。ロシア人を中心とする新たな教授陣は保守的な空気が流れていた大学に自由主義の気風をもたらし、ロシア第一革命期には他大学に先駆けて女子学生を受け入れる[2]。第一次世界大戦期にタルトゥがドイツ軍によって占領されたとき、大学の教授の多くはロシア南部に退避し、疎開先でヴォロネジ大学 1919年12月1日、エストニア臨時政府の首班ヤーン・トニッソン
沿革