タルサ人種虐殺
[Wikipedia|▼Menu]

タルサ人種虐殺
グリーンウッド地区で家や商業施設から火の手が上がる
場所 アメリカ合衆国オクラホマ州タルサ市グリーンウッド
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度09分34秒 西経95度59分11秒 / 北緯36.1594度 西経95.9864度 / 36.1594; -95.9864座標: 北緯36度09分34秒 西経95度59分11秒 / 北緯36.1594度 西経95.9864度 / 36.1594; -95.9864
日付1921年5月31日 - 6月1日
標的黒人市民、黒人住居、黒人経営の商業施設
武器銃火器、爆発物、発火装置、一部は上空から投下された[1]:196
死亡者

推定人数75から100人または150から300人 (死亡報告書などが存在したのは39人)(2001年調査委員会)[2][1]
黒人150から200人、白人50人(1921年のW.F. ホワイト(英語版)による推定)[3]
計36人; 黒人26人、白人10人(1921年の公式記録)
負傷者重軽症800人以上
重症183人 [2]
正式な人数は不確定
犯人白人系アメリカ人暴徒[4][5][6][7][8]:8, 10
アメリカ合衆国州兵[1]:193, 196 [要出典]
テンプレートを表示

タルサ人種虐殺(タルサじんしゅぎゃくさつ、: Tulsa race massacre)は、1921年アメリカ合衆国オクラホマ州タルサ市グリーンウッド地区で、白人暴徒が黒人住民を殺害し、黒人経営の商業施設を攻撃、破壊した虐殺事件である[1][9][10][11][12][13][14]。特定の人種に対する暴力として、アメリカ合衆国史上最悪の事件と称される[15]が、事件から80年近く歴史から忘れられていた。タルサ人種暴動、グリーンウッドの虐殺、ブラック・ウォール街の虐殺とも呼ばれる。
略史

虐殺は1921年5月31日から6月1日までの、戦没者追悼記念日の週末の後に起きた。

商業ビルの1階で働く白人店員が、エレベーター・オペレーターとして働く17歳の白人女性の叫び声の後に、靴磨きとして働く19歳の黒人、ローランドが逃げるのを目撃した。白人店員は警察に電話し、確証がないまま性的な暴行事件があったと通報した[16][17]。実際にエレベーターの中で何が起きたのかは、未だ謎に包まれているが、ローランドは女性の腕に触れたのは認めたが、暴行容疑は否認し、女性も被害届を出さなかった。

翌日、容疑をかけられたローランドが勾留されていた裁判所の前には、怒る白人が2000人ほどの群衆となっていた。当時アメリカでは白人による黒人のリンチ(私刑)が横行していた。白人暴徒はローランドを保護する裁判所に身柄の引き渡しを要求し、それに対抗して集まった50人ほどの黒人達との間で銃弾が交わされ、12人が死亡した[注 1][18]。この知らせが街に広がり、白人暴徒による暴力が拡大し[3]、その夜から翌日の朝にかけ、白人の暴徒たちは、黒人が住む地域を破壊して回り、建物に火をつけ、黒人の経営する店から略奪した。

白人暴徒による襲撃は地上のみならず、自家用飛行機からのライフル焼夷弾を使った攻撃も行われ、住居や店舗、学校、教会、病院などが襲撃され、その多くが焼失した。最終的にはグリーンウッド地区の35区画以上が破壊された。800人以上が病院に搬送され、6,000人以上の黒人が家や商店から連れ出され、多くは数日間に渡って収容施設に武装した警備の下拘束された[19][20]。多くの黒人達が無差別に殺され、一夜明けた昼頃、オクラホマ州兵が戒厳令をしき、事態は一時収まった。

グリーンウッド地区は当時アメリカで最も裕福な黒人コミュニティで、ニューヨークのウォール街と比較してブラック・ウォール・ストリートとも呼ばれていた。この事件でおよそ1万人の黒人住民が家を失い、被害総額は不動産で150万ドル、個人資産では75万ドルとなった。これは2019年における約3,200万ドル相当、日本円にすると35億円相当となる[注 2][1]:189。

当時のオクラホマ州の公式統計によると36人の死者が出たと記録されたが、アメリカ赤十字社は公式推定を出すことを拒否した。2001年に州政府によって行われた再調査によると、検死報告書、死亡証明書やその他の記録から確認された死者が39名となった[注 3][1]:114が、実際には少なくとも75から100人、または100から300人の死者が出たと推定した[1]:13;23。

多くの生存者は、家をなくし、その後タルサ市を去った。タルサ市に残った黒人と白人の住人たちは、この暴動と虐殺について、長年沈黙し、この事件について語られることはほとんどなかった。また、タルサ市や、オクラホマ州、またアメリカ合衆国の公式歴史にもほとんど記録されることはなかった。

虐殺から75年経った1996年、オクラホマ州政府は「タルサ人種暴動調査委員会」の設立を許諾した。委員会は残された記録や生存者の証言を集め、新たな聞き取り調査を元に報告書を作成した。2001年に公開された報告書では、タルサ市が白人暴徒と共謀して黒人コミュニティを破壊したと結論付けられた[1]。被害者が埋められているであろう集団墓地の探索がされているが、2020年の時点では発見されておらず、調査が続いている。

多くの新たな事実が発見されるにつれ、タルサ人種暴動(Tulsa Race Riot)と呼ばれていたこの事件は、次第にタルサ人種虐殺(Tulsa Race Massacre)という呼称が使われるようになる。2018年には、タルサ人種暴動調査委員会は正式にタルサ人種虐殺調査委員会と改名する[21]

長年語り継がれなかったタルサ人種虐殺は、2020年からオクラホマ州の義務教育においての必須項目となった[22]
事件の社会背景

1921年、タルサ人種虐殺が起きたオクラホマ州では社会的、政治的な不満と相まって、人種間の緊張が高まっていた。
オクラホマ州設立とジムクロウ法

現オクラホマ州は1907年にアメリカ合衆国に加盟するまで、インディアン準州として割り当てられた土地であった。インディアン準州はもともと白人がアメリカ南部での木綿産業を拡大するため、南部に住んでいたアメリカ先住民を強制移住させる特別居住地区として指定された場所だった(涙の道を参照)[23]。そのため、タルサの位置するオクラホマ州北部には、黒人奴隷を連れる先住民や、先住民族の一員となった自由身分の黒人たちが長らく住んでいた。そのような黒人たちや、奴隷解放宣言を受け自由身分となり、コミュニティの噂を聞きつけて移住して来る黒人たちが共にタルサの礎を築いた。

1897年に石油が発見されたことにより、地域の経済はますます発展を始め、1907年にオクラホマはアメリカ合衆国として加入する。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:133 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef