タラホーマの軍隊指揮官
ウィリアム・ローズクランズ
北軍少将
ブラクストン・ブラッグ
南軍大将
タラホーマ方面作戦(タラホーマほうめんさくせん、英:Tullahoma Campaign、または中部テネシー方面作戦、英:Middle Tennessee Campaign)は、南北戦争中の1863年6月24日から7月3日まで行われた一連の戦闘である[1]。北軍ウィリアム・ローズクランズ少将が指揮するカンバーランド軍は、強固な防御陣地から南軍ブラクストン・ブラッグ将軍の指揮するテネシー軍を追い出し、南軍を中部テネシーから駆逐し、テネシー州チャタヌーガに脅威を与えた。
タラホーマ方面作戦は南北戦争でローズクランズが成したほぼ間違いなく最も意義有る功績であり、歴史家達は両軍にほとんど損失が無かったにも拘わらず意義有る目標を達した「輝かしい」作戦と記述した。しかし、同じ時期に行われたゲティスバーグの戦い(7月1日?3日)やビックスバーグ方面作戦(7月4日決着)における北軍勝利の陰に隠れ、敵軍もほとんど手つかずの状態だったので、9月のチカマウガの戦いでローズクランズの悲惨な敗北に繋がってしまった。 ローズクランズとマーフリーズバラのブラッグとの間で戦われたストーンズリバーの戦い(1862年12月31日-1863年1月2日)が損失を出し戦術的には引き分けに終わった後で、ブラッグ軍は約30マイル (48 km)南、ダック川沿いでハイランド・リムと呼ばれる尾根の背後に退いた。小集団の哨兵がハイランド・リムを通る山道を守り、騎兵隊がおよそ70マイル (110 km)ある前線の両側面を守った[2]。ブラッグはテネシー州タラホーマに作戦本部を置き、ローズクランズが前進して、重要な鉄道結節点であり、北部ジョージア州へは玄関口に当たる戦略的都市チャタヌーガを占領することを心配した。ブラッグ軍の騎兵隊はその広い前線に広がっていたが、これはローズクランズがその軍隊配置の向きを変え、ブラッグ軍に後退を強いるかあるいは不利な位置で戦うことを迫ることができるかという戦術レベルの心配もあったからだった。ブラッグは、攻撃があるとすればシェルビービルの方向にある渡河の容易なガイズ・ギャップからブラッグ軍の左側面に来るものと考えた。シェルビービルにはレオニダス・ポーク中将が率いる大型の歩兵軍団に強力な塹壕線を造らせた。その8マイル (13 km)右には、ウィリアム・J・ハーディ中将の軍団にウォートレイスで防御を施させ、チャタヌーガに至る主要道路を守り、ハイランド・リムを通る他の3つの道である西のベルバックル・ギャップ、中央のリバティ・ギャップ、東のフーバーズ・ギャップを補強させた。フーバーズ・ギャップはほとんど守りが無かった。そこはストーンズ川とダック川を分ける1100フィート (330 m)幅の尾根の間の全長4マイル (6.4 km)の道だった。この道は大変狭くて2台の荷馬車が擦れ違うのがやっとであり、周りの尾根から見下ろされていた。強力な塹壕線が構築されたが、わずか1個騎兵連隊が配置されただけだった。この方面作戦後、ブラッグはそのタラホーマにおける不適切な配置について批判された。ハーディはその配置が正面攻撃と側面攻撃の両方に対応するものだったとブラッグに告げた[3]。 ローズクランズは占領したマーフリーズバラに6ヶ月間もその軍隊を留め、補給や訓練に時間を使ったが、ぬかるんだ冬の道路を進むことを躊躇したからでもあった。エイブラハム・リンカーン大統領、エドウィン・スタントン陸軍長官およびヘンリー・ハレック総司令官からはブラッグ軍に対する作戦行動を再開するよう何度も要請を受けていたが、冬と春の間はそれらを撥ね付けていた。政府の一番の心配事は、ローズクランズが怠惰に動かなければ、南軍がブラッグ軍の一部を動かして、ユリシーズ・グラント少将がビックスバーグに掛け続けている圧力を弱める試みに向かわせることだった。リンカーンはローズクランズに宛てて、「私は貴方に無分別な行動を採れというのではないが、無分別は問題外として、ブラッグがグラントに対抗するジョンストン軍の支援に動かないように最善を尽くすことを切望している。」と書き送った[4]。ローズクランズは、もし彼がブラッグ軍に対する行動を開始すれば、ブラッグが全軍をミシシッピ州に動かし、グラントのビックスバーグ方面作戦を脅かすことになる可能性があるので、ブラッグ軍を攻撃しないことでグラントを助けているのだという言い訳で答えた[5]。ハレックはローズクランズの言い訳に業を煮やし、ローズクランズが動かなければ解任すると脅したが、最終的には「ローズクランズが政府に打った電報の費用に対して」抗議しただけだった[6] 。
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