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タラフマラ
ララムリアラレ湖(メキシコチワワ州クリール)の二人のタラフマラ女性(一人は赤子を抱いている)。タラフマラ女性は彼らに特有の伝統的な明るい色の服装をしている。これらの女性は手製の品を湖畔で売っている。
(約70,000弱)
居住地域
メキシコ (チワワ州)
言語
タラフマラ語(英語版)、スペイン語
宗教
アニミズム
関連する民族
グァリヒオ族(英語版)、ウイチョル族、ヤキ族(英語版)
ララムリ、あるいはタラフマラ族はメキシコ北西部のアメリカ州の先住民族であり、長距離走の能力に秀でているとして有名である[1][2]。
16世紀のスペイン探検家の上陸により、チワワ州の固有の先住民であるタラフマラ族の多くは西シエラ・マドレ山脈に位置するバランカ・デル・コブレ(英:Copper Canyon)のような高シエラ(シエラとは、のこぎり状の山脈のこと。スペイン語:sierra)や峡谷に退避した[3]。タラフマラ族が現在居住する西シエラ・マドレ山脈の地域は、彼らの存在からシエラ・タラフマラとも呼ばれている。
2006年の調査では、タラフマラ族の人口は5万?7万と見られている。 ララムリは1500年代になって初めてスペインで紹介された。スペイン人はこの新しい部族の発見により、タラフマラ族と命名した。17世紀のはじめまでに、スペイン鉱山がタラフマラ族の生活圏に建設され、タラフマラ族は鉱山での労働力としてスペイン人による奴隷狩りの対象となった。イエズス会の宣教師ユアン・フォント(en
歴史
1631年のチワワ州Parralの鉱山の発見により、さらに多くのスペイン人がタラフマラの土地に来ることとなり、イエズス会も多くの宣教師を送り込んだ。スペイン人鉱夫による奴隷狩りがさらに行われるようになった。新しい布教活動もLas Bocas, Huejotitlan, San Felipe とSatevoにより再開された[4]。
1648年にタラフマラ族はスペインとの戦争に向かった。タラフマラ族はFariagicと合流し、それから San Francisco de Borjaにあるイエズス会の布教所を破壊した。二人のリーダーはこの襲撃によりスペイン人に捕まり、処刑された。その直後にスペイン人はタラフマラ郡の高地中心地にVilla de Aguilarを設立した。
これらの事件によりタラフマラ族は二つの地域に分かれることとなった。低地の布教所の伝道師らの継続的な活動によりキリスト教信者の多い低地に移住し、低地のものはタラフマラ族のアイデンティティを大きく失うこととなった。高地のタラフマラ族はTeporameと幾人らのリーダーの下戦争へと向かった。イエズス会は1670年代にこの地に戻り数千人のタラフマラ族を洗礼を施したが、これらの人々は低地のタラフマラ族とは別のアイデンティティを保持した。Teporameは1690年にスペイン人により処刑された[5]。1696年から1698にかけてスペイン人との戦争を続けたが、軍事的には敗北に終わった。
1753年までに、低地のタラフマラ族の布教所は在俗牧師(secular priests、修道院に住んでいない牧師、または現地人の牧師)に引き継がれた。1767年のスペイン領におけるイエズス会の解散に伴い、タラフマラ地域(西シエラ・マドレ山脈)にある布教所の多くは活動を終えた[6]。
短期間の富鉱帯の終了とともに1767年にはすべてのスペイン領からイエズス会は撤退させられた。タラフマラ族にとって、このことはイエズス会がフランシスコ会にとって代わられ、フランシスコ会の献身的な努力にもかかわらずイエズス会の布教活動に及ばなかったため、フランシスコ会の布教活動は下火となっていった。20世紀の始めにはイエズス会が戻り、荒廃した布教所の再建を行った。 多くのタラフマラ族は伝統的な生活を続けており、小さな木や石の小屋だけでなく、洞窟や断崖の軒下のような自然のシェルターを利用し居住している。主要な作物として、とうもろこしや豆などがある。しかしながら、多くのタラフマラ族は現在も移牧を続けており、牛、羊、ヤギなどを飼っている。ほとんどのタラフマラ族は、一年の内になんらかの形での移牧を行う。 メキシコのタラフマラ族の生活に関する洞察
文化
生活
ララヒッパリ詳細は「ララヒッパリ(英語版)」を参照
言語詳細は「タラフマラ語(英語版)」を参照
タラフマラ語はユト・アステカ語族に属する。スペイン語の影響で衰退しつつあるものの、現在も広く話されている。