タモリのオールナイトニッポン
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タモリの
オールナイトニッポン
ジャンルラジオバラエティ番組
放送方式生放送
放送期間1976年10月6日[注 1] - 1983年9月28日
放送時間木曜日 1:00 - 3:00(120分)
放送局ニッポン放送
ネットワークNRN
パーソナリティタモリ
出演赤塚不二夫山下洋輔近田春夫 ほか
テーマ曲ビタースウィート・サンバ(OP曲) /
タモリ「ソバヤ」、マイルス・デイヴィスRound Midnight」、ソニー・ロリンズ「Round Midnight」(ED曲)
プロデューサー岡崎(近衛)正通
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『タモリのオールナイトニッポン』は、ニッポン放送をキーステーションに、1976年10月7日[注 1]から1983年9月29日まで毎週木曜日の1:00 - 3:00(JST)に生放送されていた、ラジオバラエティ番組。メインパーソナリティータモリであり、自身の冠番組

2014年2015年2016年には『タモリのオールナイトニッポンGOLD[注 2]として、特別番組が一夜限り放送されている。
概要

1975年のある日、『高信太郎オールナイトニッポン』のディレクターを担当していた、岡崎(近衛)正通は、メインパーソナリティの高からあるについて話を聞く。それは「福岡から来た早稲田出身の変な男が夜な夜な新宿のバーでデタラメな外国語を話している」というものだった[1]

それを聞いた岡崎は、その変な男は以前早稲田大学モダンジャズ研究会にいた森田一義、のちのタモリではないかと直感する。かつて自身も所属した同研究会で異彩を放った同い年の後輩を岡崎は記憶していた。高に名前を確認すると、やはりタモリであった。そこで岡崎は、高からタモリの連絡先を聞き、当時赤塚不二夫宅にて居候をしていたタモリと久方ぶりの再会を果たすこととなる[1]

その年のに岡崎はニッポン放送にタモリを招き、オーディションを兼ねつつ遊びの感覚でタモリのトークをテープに録る。その内容は確かに面白いものであったがかなり過激であり、放送禁止の内容に溢れていた。

その後、岡崎は『高信太郎のオールナイトニッポン』にてタモリの芸を披露する機会を設ける[注 3]。すると、リスナーの反響は徐々に高まり、タモリの出演回数も増えていった。同番組は、1975年9月に最終回を迎える。その最終回のゲストは、アグネス・チャンであったが、岡崎はその回にもタモリを出すことを思い付く。そして、当日の放送でタモリはアグネスのファンを名乗る中国人として電話出演、デタラメな中国語を披露する[1]。これによってニッポン放送社内の、まだ無名だったタモリに対する注目が高まることとなった。

同じ時期、TBSラジオで放送されていた、林美雄がメインパーソナリティを務めていた『パックインミュージック』に高がゲスト出演した際にタモリも出演。林が話すデタラメなニュースにタモリがこれまたデタラメな外国語で同時通訳をした。この放送はかなりの印象をリスナーに与え、当時の10代目柳家小三治もTBSに問い合わせをしたという。

こうした状況のもと、1976年以降、『オールナイトニッポン』全般を取り仕切る立場にあった岡崎は、タモリの起用を決断する。当時のタモリは芸能活動を始めてまだ2年目の新人タレントではあったが、彼を起用することに対して、ニッポン放送社内では特に大きな反対はなかった[2]
出演者
メインパーソナリティ

タモリ

準レギュラー


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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