タミー・テレル
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タミー・テレル
Tammi Terrell
出生名Thomasina Winifred Montgomery
生誕 (1945-04-29) 1945年4月29日
アメリカ合衆国 フィラデルフィア ペンシルヴァニア州
死没 (1970-03-16) 1970年3月16日(24歳没)
アメリカ合衆国 フィラデルフィア ペンシルヴァニア州
ジャンルR&Bモータウン・サウンドソウル
活動期間1959年 - 1969年
レーベルセプター、トライ・ミー、チェッカーモータウン
共同作業者ジェームス・ブラウンマーヴィン・ゲイ、アシュフォード&シンプソン

タミー・テレル(英語: Tammi Terrell, 1945年4月29日 - 1970年3月16日)はアメリカ合衆国の黒人女性歌手。モータウン所属期の、マーヴィン・ゲイとのデュエットで知られる。

10代でデビュー後いくつかのレコード会社で録音を残すが、1965年にモータウンと契約。1967年マーヴィン・ゲイのデュエット・パートナーとしてブレイクするものの、同年10月に脳腫瘍が原因で倒れ、8回目の手術後1970年3月16日、24歳で死去した。
幼少期

タミーは1945年、フィラデルフィアでトーマス・モンゴメリーとジェニー・モンゴメリーの間に産まれた。父トーマスは床屋のオーナーかつ地方政治家、母ジェニーは女優であった。

両親は男の子が生まれると思っていたため父親の名前をつける予定であったが、女の子だったためトーマシナ(Thomasina)と名付けられた。彼女はトミーという愛称で呼ばれたが、12歳の時に映画「タミーと独身者」(Tammy and the Bachelor)とそのテーマ曲「タミー」からタミーと改称する。

タミーはその頃より偏頭痛に悩まされていた。当時は特に気にされることはなかったが、後にこれが脳腫瘍の兆候だったのではないかと家族は考えた。
活動初期

1960年、タミーはセプター・レコーズのサブ・レーベル、ワンドと契約し、タミー・モンゴメリー(Tammy Montgomery)名義でデビューする。

1961年と1962年に「イフ・ユー・シー・ビル」(If You See Bill) と「ヴォイス・オブ・エクスペリエンス」(Voice of Experience)の2枚のシングル及びデモ・レコーディングを残した後レーベルを離れ、ジェームス・ブラウン・レヴューのバックアップ・シンガーとして契約。ジェームス・ブラウンのトライ・ミー・レコーズで1963年、「アイ・クライド」(I Cried)をリリース。ビルボード・ホット100で99位と初のチャート入りを果たす。

しかしこの頃タミーとブラウンは虐待的性関係を持つようになる。ある夜ブラウンはタミーがショーの全体を観ていなかったことに激昂、路上でタミーに激しく暴力を振るい、タミーは流血する事態となった。この事件後タミーはブラウンの元を去った。

その後チェッカー・レコーズと契約するものの成功は得られず、音楽業界から半ば引退しペンシルヴァニア大学の医大予科に進学、2年間在学した。

在学中ジェリー・バトラーにナイトクラブでのショーで共に歌うように要請され、学業との並行を約束された上でツアーに参加。1965年4月のデトロイトでのツアー公演後にモータウン社長ベリー・ゴーディにスカウトされ、彼女の20歳の誕生日にモータウンと契約した。

ゴーディはタミー・モンゴメリー(Tammy Montgomery)という名が長過ぎると思い、タミー・テレル(Tammi Terrell)と改名することを提案、受け入れられた。ゴーディはこちらの方がセックス・アピールがあると感じた。

タミーは1965年に「アイ・キャント・ビリーヴ・ユー・ラヴ・ミー」(I Can’t Believe You Love Me)、翌1966年に「カモン・アンド・シー・ミー」(Come On And See Me)をリリース。共にR&Bチャートでトップ40に入った。その他スティーヴィー・ワンダーアイズレー・ブラザーズの楽曲もレコーディング。

最初のシングル・リリース後モータウン・レヴューに加わりテンプテーションズの前座としてツアーを巡る。ツアー中にテンプテーションズのスター、デイヴィッド・ラフィンと恋仲になり結婚を申し込まれるが、タミーはデイヴィッドが妻帯者でその上デトロイトに別の愛人もいることを知ってしまう。それを原因にして公然と喧嘩をするようになった二人だが、デイヴィッドがオートバイのヘルメットで彼女の頭を打ったことで破局した。デイヴィッドはハンマーで頭を打ったという噂も流れた。
マーヴィン・ゲイのデュエット・パートナーとして成功

1967年早々に、タミーはモータウンによりマーヴィン・ゲイのデュエット・パートナーに選ばれる。マーヴィンは過去にメリー・ウェルズ、キム・ウェストンとのデュエットをリリースしていた。

マーヴィンはタミーと共にレコーディングするまで彼女がどの程度の実力か知らなかったようである。最初のレコーディングはアシュフォード&シンプソン作の「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」(Ain’t No Mountain High Enough)で、二人の歌は別々に録られ、デュエットのようにミックスされた。

この曲はビルボード・ホット100の19位、R&Bチャートの3位を記録。タミーは一躍スターの仲間入りを果たした。次作「ユア・プレシャス・ラヴ」(Your Precious Love)も同様にビルボード5位、R&Bチャート2位のヒットとなった。

1967年夏には彼らの最初の3枚のシングルも含まれたアルバム「ユナイテッド」(United)がリリースされ、R&Bアルバム・チャート7位を記録。


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