タバリー(アラビア語 ?????? al-?abar? ,アラビア語ペルシア語 ??? ???? ???? ?? ???? ?????? Ab? Ja‘far Mu?ammad b. Jar?r al-?abar?、838年 ‐ 923年)は、アッバース朝時代のバグダードで活躍したウラマーである。カスピ海南岸のタバリスターン地方(現在のマーザンダラーン州)の州都アーモルの出身。ハディース学とクルアーン解釈学(タフスィール学)で優れた業績を修めており、『諸使徒と諸王の歴史』と『クルアーン章句解釈に関する全解明』の2著作は、後世の歴史学とタフスィール学の基礎的文献として現在でも重要である。かれはシャーフィイー学派から独立してジャリール学派(タバリー学派)という独自の学派を形成したが、シャーフィイー学派やハンバル学派と対立し衰微した。 タバリーはペルシア語で、フルネームをアブー・ジャアファル・ムハンマド・イブン・ジャリール・アッ=タバリーと言う。ジャアファルの父、ムハンマドは預言者ムハンマド、ジャリールの息子、タバリスターン州からそれぞれ来たものである。タバリーを首祖とするジャリール学派(:en カスピ海から約20キロメートル南に離れたタバリスターンのアーモル
目次
1 名前
2 生涯
3 人物像
4 業績
4.1 著書
4.1.1 諸使徒と諸王の歴史
4.1.2 クルアーン章句解釈に関する全解明
4.1.3 その他
5 関連資料
6 脚注
名前
生涯
タバリーは、まずレイに行った[1]。そこで彼は約5年間を過ごした。そこでの重要な師はアブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・フマイド・アッ=ラーズィーだった。彼は既に70代になっており、引退して生まれ故郷のバグダードで教えていた。タバリーはイブン・フマイドから8世紀の著明な伝承学者イブン・イスハークの歴史的業績について学んだが、特にイブン・イスハーク(:en)の主著で預言者ムハンマドの伝記である『預言者伝』(S?rat Ras?l All?h)[2]について学んだ。(預言者ムハンマドの伝記は特に『スィーラ』(al-S?ra)と呼ばれるが、後年のタバリーの著作にはムハンマド在世前後のイスラーム時代初期の情報について『預言者伝』を含むイブン・イスハークの『マガーズィーの書』からの引用が多い。)こうしてタバリーは幼少時代にイスラーム先史と、初期イスラーム史を学んだ。この経験からタバリーはイブン・フマイドをしばしば引用している。この二人の名以外、レイでの他の師については分からない。
その後、バグダードのイブン・ハンバルのもとに学びに行くが、ちょうど彼は亡くなってしまっていた。これが855年か856年の頃だった。おそらくタバリーは最初のバグダード訪問よりもメッカ、メディナへの聖地巡礼(ハッジ)を優先させた。おそらくその翌年のことではあるが、バグダードを離れ、南のバスラやクーファやワースィトなどの諸都市に渡る。そこで彼は多くの著名で優れた業績を上げた学者たちと会った。
バグダードに戻って、彼はアッバース朝第10代カリフ・ムタワッキルと第15代カリフ・ムウタミドの宰相(ワズィール)として有名であったウバイドッラー・ビン・ヤフヤー・ブン・アル=ハーカーンの個人家庭教師になった。これが858年より前のことだと考えられる。ワズィール・ウバイドゥッラーは公職を辞し、858年から862年まで追放されていた。ここに一つの逸話がある。タバリーが月に金貨10ディナールで教師に就いたところ、あまりにも教え方が上手く文筆に優れていたので、タバリーは皿いっぱいのディナール金貨とディルハム銀貨を受けた。高潔なタバリーはその申し出を仕事に見合う量の仕事で契約したのだからこれ以上の名誉は受けられないと言ってその申し出を辞退した。このように贈り物を固辞したり、必要以上の見返りを辞退する彼のエピソードは数多い。
20代の後半、タバリーはシリア、パレスチナ、エジプトを旅行した。ベイルートでアル=アッバース・ブン・アル=ワリード・ブン・アル=マズヤード・アル=ウズリー・アル=バイルーティー(785年-883年)とのきわめて重要なつながりを作った。アル=アッバースはタバリーにシリア学派のクルアーンのいろいろな読み方を教えた。そしてタバリーは100年前からベイルートで著名な法学者である父のワリードのアル=アウザーイー(いわゆるシリアのアウザーイー学派の名祖)の法観念を伝えられた。
867年、タバリーはエジプトに辿り着いた。マーリク学派とシャーフィイー学派の法学を学ぶ。ここでの重要な関係はイブン・アブド・アル=ハカム家との交流である。
870年以降タバリーは時々バグダードに戻っている。バグダードへの道中で、ハッジを行ったと推測される。もしそうなら彼はヒジャーズにはあまり長くいなかったことになる。