タハリール広場????? ???????
タハリール広場(2020年)
タハリール広場(タハリールひろば、アラビア語: ????? ???????、ラテン文字転写: M?d?n at-Ta?r?r、IPA: [me?da?n etta???i??])は、エジプトの首都であるカイロの中心部にある広場である。
タハリール広場は、1854年にムハンマド・アリー朝のイスマーイール・パシャによって、フランスのエトワール広場を真似て建設された。建設当初はイスマーイーリーヤ広場と呼ばれていたが、1952年エジプト革命を経て、現在の名称であり、アラビア語で「解放」を意味するタハリール広場と呼ばれるようになった。広場はカイロの中心部に位置しており、周囲には政府の庁舎や各国の大使館、アラブ連盟の本部が位置している。また、かつては、与党であった国民民主党の本部も位置していた。
広場は1919年エジプト革命、1952年エジプト革命、2011年エジプト革命などの歴史的局面の舞台となっており、エジプトにおいては、エジプト人の総意として権力に抗議する場となっている[1]。2011年エジプト革命においてタハリール広場は革命のシンボルとなったほか、世界中の注目を集めた。 タハリール広場はカイロの中心部に位置している[2]。周囲には政府の庁舎、博物館、また、アラブ連盟の本部が存在する[3][4]。こうした建物はエジプト人建築家であるマフムード・リヤドによって設計された[5]。また、かつてはガマール・アブドゥル=ナーセルが建設し、アラブ社会主義連合
所在地
広場の南側はガーデンシティー地区と呼ばれ、王制の時代に閣僚を務めた政治家の洋館が並び立っている。こうした洋館は現在では大使館や大使公邸として用いられている[6]。
交通タハリール広場を走る自動車
2013年現在、タハリール広場は、タハリール通りやアル=カスル・アル=アイニ通りなど16の道路に接続している。そのため、タハリール広場はカイロで最もアクセスしやすい場所になっている[7]。しかし、タハリール広場の周囲は政府の省庁や外国の大使館が取り囲んでいるため、カイロの幹線を妨げている[3]。また、タハリール広場の周辺はカイロのなかで最も大気汚染が進んでいる地区のひとつとなっている[8]。 タハリール広場の面積はおよそ45,000平方メートルである[9]。広場の中心部にはエジプト第19王朝のファラオであるラムセス2世時代にあたる3,500年前のオベリスクが設置されている[8]。この19メートルのオベリスクはシャルキーヤ県から移設されたもので、広場に設置するためにいくつかのパーツが分割された[8][10]。また、カルナック神殿にあった4つのスフィンクスが広場に設置されている[11]。こうした改築は2019年よりシーシー政権によって行われた[8]。オマル・マクラムの彫像 タハリール広場の小広場には、フランスのナポレオン・ボナパルトによるエジプト占領に抵抗した民衆指導者であるオマル・マクラム タハリール広場は1854年にムハンマド・アリー朝のイスマーイール・パシャによって進められたカイロの都市計画の一環として、ナイル川に面するナイル宮殿を中心とするかたちで建設された[13][1][注釈 2]。この都市計画はパリ市長であったジョルジュ・オスマンによるパリ改造に影響を受けており、ヨーロッパ風の建物が建設された[13]。広場もパリにあるエトワール広場を真似て作られた[14]。この広場は彼の名を取ってイスマーイール広場、またはイスマイーリーヤ広場と呼ばれた[15][1]。 1882年にイギリスがエジプトを軍事占領すると、広場はイギリスによる植民地計画の中心地となった[15]。ナイル宮殿は接収され[16]、広場はイギリス軍の主要な兵舎となった[15][4]。アラビアのロレンスとして知られるトーマス・エドワード・ロレンスはここで中東への遠征を進言した[15]。 第一次世界大戦が始まると、イギリスはエジプトを戒厳令下に置いた。これにより反イギリス民族運動は抑え込まれたが、1917年末からは食糧不足が深刻になったほか、およそ25万人のエジプト人が徴用されたことなどでイギリスの統治に対する不満は溜まっていった。こうした不満が溜まるにつれてエジプトでは独立の機運が高まった[17]。
建築
歴史
建設
イギリス統治時代「エジプト革命 (1919年)」も参照タハリール広場(1941年)