タニンダーリ地方域
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タニンダーリ地方域
(MLCTS
: ta.nangsari tuing: desa. kri:)

州都ダウェイ
地域南部
面積43,328 km2
人口1,327,400
民族ビルマ族ラカイン族モン族シャン族、Burmese-Thai、カレン族モーケン族マレー人
宗教仏教イスラーム

タニンダーリ地方域(?ちほういき、Tanintharyi Division)、旧名テナセリムは、ミャンマーの行政区画である。ミャンマー国土の最南部、北緯15度以南、クラ地峡以北の細長い地域を占める。西はアンダマン海、東と南はタイのマレー半島部、北はモン州に接する。区都はダウェイ(旧称: タヴォイ)。他の主要都市はミェイク(旧称「メルギー」、: Mergui - メルグイとも)及びタイとの国境の町コータウン(英語版)(「ビクトリア・ポイント」としても知られる)である。

4万3328キロメートルの領域をもち、1983年の国勢調査における人口は91万7628人。地方域の ISO 3166-2 コードは、MM-05である。
歴史

歴史的にはKadaram(英語版)(630年 - 1136年)やクダ王国(英語版)(1136年 - )の一部であった。そのため、地名の「タニンダーリ」または「テナセリム」は、マレー語の "Tanah Sari" に由来し、"Tanah" は「土地」、"Sari" は「中心」を意味する、すなわち「中国」の意味である。この時期からの住人がモン族カレン族である。

1068年チョーラ朝のen:Virarajendra Cholaがen:Chola invasion of Kadaram (1068)で海からKadaram(英語版)に侵攻した。

マレーシアクダ州やタイのサトゥーン県と文化的に深い繋がりを持っている。クダ王国は親タイであったため、当時隣接していたパタニ王国の後継であるタイ深南部パッターニー県ヤラー県ナラーティワート県)の独立運動には関わらないことが多い。

タイのアユタヤ王朝(1351年 - 1767年)時代、ビルマ軍がタイに侵攻する際は、ビルマ軍の拠点であった。アユタヤ王朝時代の末期である1751年にダウェイが港として建設された。

アユタヤ王朝時代の後、シャムとビルマが交互に支配し続けた。

1826年2月、第一次英ビルマ戦争(英語版)の結果、イギリスとビルマ間で締結されたヤンダボ条約(英語版)によってイギリスの植民地時代を迎えた。

同年6月20日、イギリスとシャムが境界画定条約(英語版)を締結(1868年に別の条約が締結された)し、国境が確定した。英領ビルマ首都はタニンダーリ(現在のモン州を含んでいた)のモーラミャインに定められた。

1826年後半、イギリスとシャムがバーニー条約(英語版)を締結し、クダ王国のクダ州やサトゥーン県がイギリスマラッカ海峡植民地となった為、クダ王国以来の歴史的な文化的繋がりが途絶えた。この期間、イギリスは植民地運営の為にカレン族を雇い入れた。

1852年、第二次英ビルマ戦争(英語版)の結果、イギリスが下ビルマ全域を制圧して首都がラングーンへ移されると、南東ビルマのタニンダーリ地方は現在のモン州カレン州バゴー地方域のタウングー郡(英語版)を含むようになり、モーラミャインがタニンダーリ地方の区都になった。

イギリスは、タニンダーリからカレン族を連れて下ビルマの植民地運営に乗り出した。この時の支配関係、すなわち支配者側のカレン族と、被支配者側のビルマ族という構図が、今日のミャンマーにおける民族間対立の原因となった。

ダウェイ近郊のマウンマガン村にビーチがあり、植民地時代にはイギリス人の避暑地となっていた。同地は現在もミャンマー内で人気リゾート地として観光業が盛んである。

1948年、ビルマ独立に際して、タニンダーリ地方の東北部が新たにカレン州として置かれた。1974年、残りのタニンダーリ地方の北部がモン州として置かれ、モーラミャインはモン州に移った為、タニンダーリの新しい区都としてダウェイが選ばれた。
隣接行政区画

モン州

カーンチャナブリー県

ラーチャブリー県


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