タトラ_(自動車)
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タトラ
TATRA TRUCKS a.s.

種類株式会社
本社所在地 チェコ
チェコ共和国 モラヴィア・スレスコ州 ノヴィー・イチーン郡
設立1850年
業種輸送用機器
事業内容自動車、トラック、鉄道車両
代表者ルカシュ・アンドリセク (会長)
主要株主チェコスロバキアグループ (65%)
Promet Group (35%)
関係する人物イグナーツ・シュスタラ(英語版) (創業者)
ハンス・レドヴィンカ (デザイナー)
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タトラ(Tatra)は、チェコ自動車ディーゼルエンジン等のメーカー(Tatra a.s.)およびそのブランド名のひとつである。大型トラックの分野で東ヨーロッパを代表するメーカーであり、悪路踏破能力と耐候性に卓越したトラックを作ることで知られている。かつては空冷エンジンを搭載した大型のリアエンジン乗用車も製造していたが、1998年に乗用車分野から撤退した。旧共産圏諸国で広く用いられた規格形路面電車であるタトラカーのメーカーとしても知られている。Tatra T87(1936年 - 1950年)東ドイツ陸軍のTatra T813Tatra 12(1929年)

本社・工場はチェコ東部のコプジブニツェ市に所在。社名は旧チェコスロバキアの最高峰であるスロバキアタトラ山脈にちなむ。
概要

チェコ人の実業家、イグナーツ・シュスタラ(Ignac ?ustala, 1822年 - 1891年)が1850年オーストリア・ハンガリー帝国領のネッセルドルフ(Nesseldorf, 現チェコ・コプジブニツェ : Kop?ivnice)で、馬車メーカーのネッセルドルフ車両製造会社(Nesseldorf Wagenbau Fabriks Gesellschaft)として開業した。

1881年鉄道分野に進出して客車の製造を開始。1897年には自動車製造を開始し、ネッセルドルフ車両製造工業会社(Nesselsdorfer Wagenbau-Fabriks-Gesellschaft)に改称した。さらにチェコスロバキア共和国成立にともない、チェコ語地名に合わせてコプジブニツェ輸送機器株式会社(Kop?ivnica vozovka, a.s.)に改称した。

「タトラ」ブランドで生産された同社の自動車は、1920年代から1930年代にかけて国際的に高い評価を受けて成功をおさめ、1927年にはタトラ工業株式会社(Zavody Tatra, a.s.)に改称。のちチェコの財閥で、鉄道車両、エレベーターの製造工場やビール醸造所などを経営するリングホッフェル家の傘下に入り、1935年プラハ・スミーホフに鉄道車両工場を持つリングホッフェル工業株式会社(a.s. Ringhofferovy zavody)と合併してリングホッフェル・タトラ株式会社(Ringhoffer-Tatra, a.s.)となり、本社をプラハに移した。この間、自動車のほか鉄道車両、航空機の生産も本格的に手がけた。

1939年ナチスドイツ侵攻にともなってドイツの軍需工場体制に組み込まれたあと、終戦後の1945年、社長のハヌシュ・リングホッフェル(Hanu? Ringhoffer)らリングホッフェル家はナチス協力者として追放され、会社は同年10月の主要重工業企業国有化でタトラ国営会社(Tatra, n.p.)に改組された。傘下にコプジブニツェ工場(トラック、エンジンなど製造)、スミーホフ工場(路面電車、トロリーバス製造)、ブラチスラヴァ工場(土木車両、トラックなど製造及び更新改造工事)、バーノフツェ・ベブラヴォウ支工場(トラック、車軸など製造)、チャドツァ支工場(トラックなど製造)などの各工場を置いた。社会主義政権発足後の計画経済下で乗用車の生産は中止され、一時トラック、バス、鉄道車両の生産に特化したが、1955年には乗用車生産を再開し、大衆車メーカーAZNP社(現・シュコダ・オート社)に対し高級車メーカーとして公用車向けタトラT603などを製造。"タトラカー"路面電車とともに共産圏の各国に広く輸出された。

1989年体制転換後、1992年に民営化されタトラ株式会社(Tatra a.s.)となったが、西側の自動車メーカーとの競争にさらされてこれまでの主要な市場を失って急速に経営が悪化。乗用車生産を打ち切る一方、軍用車両の受注で経営破綻を免れ、最終的にアメリカ系多国籍企業テレックス社が株式の80.5%を取得して救済した。2006年10月にはチェコの投資ファンド、ブルーリバー(Blue River)が買収。オーストラリアを中心とした欧米市場のほか、中東欧やロシア市場への再進出も図り、2007年には生産能力強化を目的に生産ラインへの大規模投資計画を明らかにした。

しかし世界金融危機の影響で2009年には再び経営が悪化。業績回復を図るため、アメリカのトラックメーカー、ナビスター・インターナショナル社と合同で軍用車両を生産することで合意した。
乗用車

タトラ社の前半生における発展は、同社に所属する優れた技術者であったハンス・レドヴィンカ(Hans Ledwinka 1878年2月14日オーストリア・クロスターノイブルク生まれ、1967年3月2日ドイツ・ミュンヘンにて死去)の存在なくして語ることはできない。

SOHC動弁機構、バックボーンフレームスイングアクスル式独立懸架空冷エンジン、リアエンジン方式、流線型車体など、発明自体はレドヴィンカによるものではないが、彼によって積極的に用いられ、他社にまで一般化した自動車技術は枚挙にいとまがない。レドヴィンカが現役であった1930年代のタトラ社は、世界で最も進んだ自動車メーカーの一つだったと言っても、おそらく過言ではなかった。
創業期最初の生産車「プレジデント」(1897年)

1897年から、東ヨーロッパで最初のガソリン自動車製造を開始。当初、ドイツのベンツ社から技術導入したため、ベンツ同様のリアエンジン構造であった。1898年にはトラックも自力開発している。

1900年以降の生産モデルは一般的なフロントエンジン形に移行するが、1897年に入社していたものの一時会社を離れていた若い技術者のハンス・レドヴィンカが復帰し、開発を受け持つようになってから急激な発展が始まった。レドヴィンカは1905年、独自設計の新型車「モデルS」を開発した。世界でも最も早い時期にSOHC動弁機構と半球形燃焼室を導入した例である。まず3.3リッターの4気筒モデル「S-4」が開発され、当時としては強力な30HPの出力を発揮して商業的に成功した。当時の自動車市場は限られ、「S-4」の多くはトラック仕様で製造された。

これに2気筒を追加した5リッターの6気筒モデル「S-6」が1909年に開発された。50HP、最高110km/hの高性能車で、レースで優れた成績を上げ、ネッセルドルフ車の評価を定着させた。
第一次世界大戦前後と「タトラ」の成立

レドヴィンカは、1914年から翌年にかけてモデルSシリーズより更に強力な「モデルT」シリーズを開発、これらは1920年代中期まで長きにわたって生産された(のちには「タトラ」のネームを付けて販売された)。だが1915年、新たに就任したネッセルドルフの新経営陣は、自動車部門よりも鉄道車両部門を重視する方針を採った。彼らと折り合いの悪くなったレドヴィンカは1916年に退社し、オーストリアのシュタイア社へ移った。

レドヴィンカはシュタイアで、ジョイントレス・スイングアクスルを使った後輪独立懸架車を設計しており、以後このタイプの独立懸架を多用するようになる。ジョイントレス・スイングアクスルは、古く1903年にドイツのアドラー社が開発したシステムで、独立懸架としては最も簡潔なものの一つである。差動装置かさ歯車を別体とし、かさ歯車がそのまま車軸を揺動させるためのガイド兼ジョイントとなる構造である。左右それぞれの車輪に直結したハーフ・アクスルには、強度やコストの面で不利な自在継手を用いないのが特徴であった。

この方式はのちに、中・高速域での急激な姿勢変動を起こしやすいことから操縦安定性に難点があることが顕在化した。結果、1960年代以降は廃れることになる。しかし1920年代においては自動車の後輪に使用しうる唯一の独立懸架方式であり、その採用は極めて先進的な試みであった。

第一次世界大戦の敗戦でオーストリア・ハンガリー帝国が解体され、ネッセルドルフ市は新たに成立したチェコスロバキア共和国の区域に入った。街の名前もチェコ風のコプジブニツェへと変わり、ネッセルドルフ社もチェコ語名称のコプジブニツェ社(Kop?ivnica vozovka a. s.)に改組された。

1919年、ブランド名を「タトラ」に変更している。名称は、スロバキアとポーランドとの国境、カルパチア山系にそびえる名山・タトラ山(最高峰は海抜2,655mのGierlach峰)に由来する。試作した4輪ブレーキ装備車をタトラ山地でテストしたことからのネーミングである(チェコとスロバキアは1993年分割されるまで一体の国であった)。
1920年代 - 1930年代
タトラT11Tatra T11(1924年) 空冷車でフロントグリルはない。T11のシャシー。この構造は文字通り簡潔さの極致である。

経営者が再び自動車部門重視派に変わったのを機に、ハンス・レドヴィンカが招聘を受けて復帰したのは1921年であった。彼は主任設計者(のち技術担当重役)となり、シュタイア社で果たせなかった小型車の設計に乗り出した。

ブランドがタトラと改称されてから最初の新設計モデルとなった「T11」は、レドヴィンカが交通事故で入院中に着想したもので、1924年に完成した。


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