.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}日本テレビホールディングス > タツノコプロ
株式会社タツノコプロ
Tatsunoko Production Co., Ltd.種類株式会社
本社所在地 日本
〒180-0006
東京都武蔵野市中町1丁目19番3号
武蔵野YSビル2F
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度42分18.22秒 東経139度33分43.14秒 / 北緯35.7050611度 東経139.5619833度 / 35.7050611; 139.5619833
株式会社タツノコプロ(英: Tatsunoko Production Co., Ltd.)は、日本のアニメ制作会社。日本テレビホールディングス株式会社の連結子会社、株式会社タカラトミーの持分法適用会社。日本動画協会正会員。 漫画等の原作をもとにしないオリジナルアニメを得意とし、作品にかかわる権利の9割以上を自社単独で保有している。1962年10月、「株式会社竜の子プロダクション」(たつのこプロダクション)として設立。2013年3月、これまで通称として使用してきた「タツノコプロ」に商号変更された。コーポレート・キャラクターは、タツノオトシゴである。
概要
沿革
1960年代
1962年(昭和37年)
10月19日 - 漫画家の吉田竜夫が、自身のマネージャーを務めていた弟の吉田健二らと共に「株式会社竜の子プロダクション」(以下、「タツノコプロ」)を東京都武蔵野市に設立。竜夫の末弟で漫画家の九里一平(本名:吉田豊治)も、竜夫と健二に勧められるまま参加。3兄弟が代表権を持つ取締役に就任し、竜夫が社長、健二が専務、九里が常務となった。当初は吉田竜夫の漫画の版権やアシスタントの管理をするための漫画専門のプロダクションだった。創設時には、辻なおき、望月三起也、中城健が参加した。
1964年(昭和39年)
タツノコプロへ東映動画からテレビアニメ制作の企画が持ち込まれ『宇宙エース』の企画が立てられるが、著作権の配分を巡って紛糾し制作開始直前に企画が中止となる。タツノコプロが原作と演出、東映動画が作画以降の作業を分担する計画であった。企画中止の後、東映動画は独自に『宇宙パトロールホッパ』を制作した[3][4]。このとき、タツノコ側からはアシスタントの原征太郎と吉田兄弟の友人の漫画家笹川ひろしが東映動画で3か月のアニメーター養成研修を受けた。
1965年(昭和40年)
5月 - タツノコプロ単独制作により『宇宙エース』がテレビアニメ第1作としてフジテレビ系列で放送開始。モノクロ作品。吉田兄弟、笹川ひろし、原征太郎を中心に新たに奥田誠治、坪田力蔵、西岡たかし、木下敏治、東映動画から美術の中村光毅、虫プロダクションから脚本家の鳥海尽三らが加わる。その他、新聞の募集広告で約60名のスタッフが集まる。『宇宙エース』放送以後、1980年中盤までタツノコ制作の多くの作品がフジテレビ系列で放映される。
1966年(昭和41年)
2月 - 鳥海永行が入社、当時は文芸部がなかったため演出部に所属。
1967年(昭和42年)
4月 - カラー作品第1号『マッハGoGoGo』が放送開始。以後、吉田竜夫が原作を務めた作品と『いなかっぺ大将』(川崎のぼる原作)などの他の原作者による作品を並行しながら、アニメ制作を続ける。『ハクション大魔王』などのスラップスティックギャグを多く制作し、その間に『みなしごハッチ』を始めとする家庭向けメルヘン作品などの他ジャンルのアニメも手掛け、1970年代からは『科学忍者隊ガッチャマン』の制作を切っ掛けにしてSFアクションヒーロー物も制作のラインナップに加わる。
1970年代
1973年(昭和48年)
タツノコランドを設立。同社はタツノコプロのキャラクターをプラモデル化、販売は今井科学が行なった。タツノコランドはテレビアニメ『新造人間キャシャーン』『破裏拳ポリマー』のスポンサーにもなった。
1975年(昭和50年)
タイムボカンシリーズ開始。
1977年(昭和52年)
3月7日 - 子会社のアニメフレンドを設立。
9月5日 - 吉田竜夫社長が肝臓がんのため45歳で死去。
吉田竜夫が体調を崩した前後から、タツノコプロ草創期のメンバーを中心に社外への人材流出が起きる[5]。
9月21日 - 吉田健二取締役が第2代社長に就任。
1978年(昭和53年)
アニメーター養成機関、タツノコアニメ技術研究所を設立。
1980年代
1983年(昭和58年)
3月 - 『ハクション大魔王』以来続いた日曜夜6時のタツノコプロ制作枠が廃枠となる。
9月 - 『イタダキマン』が打ち切り。タイムボカンシリーズ終了。
1985年(昭和60年)
9月 - 『炎のアルペンローゼ ジュディ&ランディ』(赤石路代原作)を最後に、タツノコプロ制作による新作アニメのフジテレビ系列での放送が長らく途絶える事になる[注 1]。
1986年(昭和61年)
『ドテラマン』が、1971年(昭和46年)に制作・放送された『アニメンタリー 決断』以来15年ぶりに日本テレビでタツノコプロ制作のアニメが放映された。また、朝日放送でも9年ぶりとなるタツノコプロ作品の『光の伝説』が放送される。