タタル部(塔塔児、Tatar)は、モンゴル帝国以前にモンゴル高原東部に存在したモンゴル系遊牧民族。『元史』などでは塔塔児、『集史』ではQaum T?t?rと記される。チンギス・カンによって滅ぼされたが、その名は遊牧騎馬民族の代名詞となり、ヨーロッパに広まってタタールと呼ばれるようになる。また、宋代以降から漢化したオングト部が「白韃靼」と呼ばれたのに対し、漢化していないタタルをはじめとする諸部族を「黒韃靼」と呼んだ[1]。タタール部とも表記される。[2] タタルの起源はモンゴル部同様に、6世紀から10世紀にかけて中国東北部に存在した室韋であり、8世紀に突厥によって刻まれた『オルホン碑文』にある「三十姓(オトゥズ)タタル Otuz Tatar」もこれにあたる[3]。 モンゴル部のキヤト氏のカブル・カンは妻のカラルク(Qar?lq?)の兄弟であるサイン・テキン(S??n T?k?n)が病気になったので、これを治すためにタタル部族のチャルキル・ノドイ(Charqil N?d??)という名のカム(巫者、シャーマン)を招いた。しかし、その巫術もむなしくサイン・テキンが亡くなったので、サイン・テキンの一族はそのカムを追いかけて殺してしまう。これ以降モンゴル部族とタタル部族との間に敵対心が生まれ、多年にわたって慢性的に戦闘・略奪が行われるようになった[4][5]。 モンゴルのアンバガイ・カンがブイル湖とコレン湖の間のウルシウン河のふもとに住むタタルのアイリウト・ビルウトという氏族に娘を与えるため、自ら娘を送りに行ったが[6]、タタルの?の民(ジュイン・イルゲン)[7]によって捕えられ、金帝国の皇帝のもとへと連行されて処刑された。これにより、後を継いだクトラ・カンはアンバガイ・カンの仇をとるため、カダアン・タイシとともにタタルのコトン・バラガとジャリ・ブカの所へ攻め込んだ。一方、モンゴルのイェスゲイ・バアトルはタタルのテムジン・ウゲ[8]とコリ・ブカ[9]という二人の頭とその民を捕えた。折しもイェスゲイに長男が生まれたため、捕えた敵将にちなみ、「テムジン」と名付けた。これが後のチンギス・カンとなる。テムジンが九歳になった年、イェスゲイはのどが渇いていたので、近くのタタル部の宴会に潜り込み、飲み物を分けてもらった。しかし、テムジン・ウゲとコリ・ブカの怨みがあったタタル部民は飲み物に毒を仕込んでやり、イェスゲイを毒殺した。その後しばらくはモンゴル部内の分裂があって両者の争いは一時沈静化する[10]。 1196年、テムジンがキヤト氏族のカンとして即位した頃、タタル部の首長メグジン・セウルトゥらが金朝の議に従わないということで、皇帝の命を受けた王京丞相(オンギン・チンサン、完顔襄)が軍勢を率いてタタル討伐を始めた。これを聞いたテムジンは父の仇を討つ絶好の機会と考え、同盟者であるケレイトのトオリル・カン(後のオン・カン)とともにタタルのメグジン・セウルトゥの所へ攻め入った。メグジン・セウルトゥは砦を築いて籠城していたが、テムジンらに捕えられ、その場で殺害された。これを聞いた王京丞相は大いに喜び、テムジンに「ジャウト・クリ」という称号を、トオリル・カンには「オン(王)」という称号を与え、以来トオリル・カンはオン・カンと呼ばれるようになった。
歴史
起源
モンゴル部との争いの始まり
ウルジャ河の戦い詳細は「ウルジャ河の戦い」を参照