タシュケント_(嚮導駆逐艦)
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タシュケント
Ташкент

艦歴
起工1935年1月11日
オートリヴォルノ造船所
進水1937年12月28日
竣工1939年5月6日
引渡1939年10月22日
所属 赤色黒海艦隊
戦没1942年7月2日
除籍1942年
要目
艦種嚮導駆逐艦
艦型20号計画型
排水量基準排水量2893 t
計画通常排水量3216 t
公試排水量3422 t
満載排水量(1941年)4163 t
全長139.8 m
全幅13.7 m
喫水4.0 m
機関ヤーロウ4 基
オルランド式蒸気タービン2 基102000 馬力(計画)
130000 馬力(公試)
推進2推進
速力最大速度42.5 kn
43.5 kn(公試)
42.7 kn(1942年)
巡航速度20 kn
航続距離5030 /20 kn
燃料搭載量1178 t
乗員250 名
武装(初期)50口径130 mm単装B-133 基
45 mm単装高角砲21-K6 基
12.7 mm機銃DShK6 基
533 mm3連装魚雷発射管3 基
機雷1908/39:80 - 100 個
KB:68 - 76 個
武装(1941年初)50口径130 mm連装砲B-2LM3 基
37 mm単装高角砲70-K6 基
12.7 mm機銃DShK6 基
533 mm3連装魚雷発射管3 基
機雷1908/39:80 - 100 個
KB:68 - 76 個
武装(1941年8月の追加装備)55口径76 mm単装砲39-K2 基
装甲なし

タシュケント(ロシア語:Ташкентタシュキェーント)は、イタリアで建造されたソ連嚮導駆逐艦(Лидер эскадренных миноносцев)である。艦名は元はウズベキスタンの首都タシュケントに因んだものであるが、直接的にはロシア内戦時の殊勲船の名称を記念したものである。艦隊では、その艦体色と役割から「空色巡洋艦」(“Голубой крейсер”ガルボーイ・クリェーイスィル)と呼ばれて親しまれた。ソ連では、大祖国戦争における勝利のために大きな功績のあった英雄的な艦として記憶されている。目次

1 概要

1.1 開発

1.2 建造

1.3 兵装

1.4 実戦

1.5 セヴァストーポリの戦い

1.6 南ロシアへの脱出

1.7 復帰


2 関連項目

3 外部リンク

概要
開発

1930年代イギリスフランス日本アメリカ合衆国イタリアでは高性能の大型駆逐艦を巡る建艦競争が巻き起こっていた。一方、ワシントン海軍軍縮条約に参加しなかったソ連では、この時期には第二次五ヶ年計画に着手しており、海軍力の増強を図っていた。そうした中、世界の潮流を見て、ソ連でもこうしたクラスの艦艇の保有が戦術上の課題として考えられるようになった。そこで、ソ連では最初の嚮導艦となる第1号および第38号計画型嚮導駆逐艦を開発し、合わせて6隻の同型が建造された。

その後、ソ連は嚮導艦の戦術的価値のさらなる向上のため、42.5 kn以上の高速力と20 knで5000の航続力の実現を根幹とした非装甲型嚮導偵察艦の基本計画を立案した。この計画は、海外の建艦技術を導入するためイタリアの造船会社に発注することが決定され、「I型」(типа ≪И≫チーパ・イー)と呼ばれるようになった。「I」とは、旧来駆逐艦クラスの艦艇に形容詞による名称をつけてきたソ連・ロシア海軍の伝統に則り、「インポールトヌイ」(輸入の)、あるいは「イタリヤーンスキイ」(イタリアの)という語の頭文字であるとされた。また、この艦はこれも駆逐艦風の名称で「イタリヤーネツ」(イタリア人)とも渾名された。
建造 1939年、公試を実施するタシュケント

計画書を提出したイタリアの造船会社3社のうち、オート社の計画が最も優れていると判断された。ソ連と契約を結んだオート社は、計画に基づいた新型艦を1937年1月11日リヴォルノ造船所で起工した。起工に伴い、「I型」は正式にタシュケントと名付けられた。レニングラートキエフミンスクなどソ連構成共和国の首都名を戴いた他の嚮導艦と違い、「イタリヤーネツ」に対してはロシア内戦中に戦没したヴォルガ小艦隊の曳船タシュケント(旧称第7号曳船)に因んでの命名がなされた。

タシュケントの起工に伴い、ソ連では3隻の同型艦を建造することが決定された。建艦は1938年から1939年にかけて行われることが予定された。


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