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タクロバン
City of Tacloban
Ciudad han Tacloban
Siyudad han Tacloban
位置
タクロバンの位置
位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯11度15分 東経125度00分 / 北緯11.250度 東経125.000度 / 11.250; 125.000
行政
国 フィリピン
地方東ビサヤ地方
州レイテ州
市タクロバン
市長アルフレッド・S・ロマオルデス
地理
面積
市域201.72[1] km2 (77.88 mi2)
人口
人口(2015年[2]現在)
市域242,089人
人口密度 1,200人/km2
その他
等時帯フィリピン標準時 (UTC+8)
夏時間なし
市外局番63, 53
公式ウェブサイト : ⇒http://www.tacloban.gov.ph
タクロバン(英語: Tacloban、ワライ語: Syudad han Tacloban、タガログ語:Lungsod ng Tacloban)はフィリピン中部、レイテ島北東部の海岸にある港湾都市。2008年12月18日に高度都市化都市に指定された[3]。マニラの南東約580kmに位置している。
首長議会制(英語版)を採用し、市長の権限が強い。2014年3月現在の市長はアルフレッド・S・ロマオルデス(Alfred S. Romualdez)、副市長はジェリー・T・ヤオカシン(Jerry T. Yaokasin)である。
タクロバンは東ビサヤ地方全体の商業、観光、教育、文化、そして政治の中心であり、海外貿易や大型船の出入りが盛んな港町かつ空の玄関口であり、埠頭の西端にはカラフルな市場が広がっている。市街地はカンカバト湾 (Cancabato Bay) およびサン・ファニーコ海峡に面し、隣のサマール島とはサン・ファニーコ橋で結ばれ、「湾のそばの美しい街 (The Beautiful City By The Bay)」のニックネームを持つ。2010年現在人口は約22万人[2]、バランガイ(集落)の数は138。第二次世界大戦中はフィリピンの臨時首都でもあった。2010年7月にアジア管理研究所(英語版)が公開した調査結果ではタクロバンはフィリピンの中で都市競争力のある都市の十指に入っている。全体では5位に入り、新興都市分野では2位に入った[4]。2013年11月には、台風30号によって甚大な被害を受けた[5]。 タクロバンはかつてカンカバトク (Kankabatok) の名で呼ばれる集落であった。この名は最初にこの地に住んでいたカバトク (Kabatok) という部族の名から来ており、「カバトクの土地」の意味である。彼らは現在のサント・ニーニョ教会周辺に集落を構えていた。その後グモダ(Gumoda)やハラギン(Haraging)、フラウ(Huraw)などの部族が現れ近くに集落を構えた。フラウの集落は現在市役所がある丘にあった。これらは後に1つの集落となりカンカバトクという名前になった。
歴史市名の由来となった漁具「タクラブ」を用いたパフォーマンス
概説
この地は台風が多いため古い文書は失われており、タクロバンがいつ町になったかは明らかではないが、一般にはタクロバンがムニシパル(町)を公的に宣言したのは1770年のことだと信じられている。1768年にはレイテとサマールは別の州(軍管区)になっており、両島が狭い海峡で接するという位置から戦略的に、また交易上もタクロバンが重視された。レイテ州の州都がタクロバンに移ったのは1830年のことである。これはタクロバンが理想的な港であること、十分な施設があったためである。タクロバンが法令第760号で市に昇格したのは1952年6月12日である[6]。
1901年にはマーレイ大佐が上陸して米軍の軍事政権による支配が始まり、タクロバンの港は対外開放された。第二次世界大戦前にはタクロバンはすでにレイテ島の商業・教育、社会や文化の中心となっており、コプラやマニラ麻の輸出で栄えるようになっていた。教育ではレイテ師範学校、レイテ高等学校、レイテ専修学校、神聖幼稚園(英語版)やタクロバンカトリック協会がリードした。
1912年には台風がフィリピン中部を通過し、タクロバンは「壊滅同然」になった。パナイ島のカピス州とタクロバンを合わせた死者数は、当時のその地域の全人口の半分にあたる15,000人にのぼった[7]。タクロバン市役所前にあるマッカーサーとオスメニャの銅像
1942年5月25日に日本軍がタクロバンに上陸し、タクロバンの港を物資の集積地とし、都市を要塞化しサンペドロ湾の港湾や滑走路を整備した。日本軍の占領下にあった約2年の間、老人を含む多くの住民がゲリラとなり抵抗を行っている。この中で代表格といえるのがルペルト・カングレオン(英語版)である。タクロバンは米比連合軍により最初に解放された。タクロバン、パロへの上陸(それぞれホワイトビーチ、レッドビーチと呼ばれる)や1944年10月20日の米軍によるレイテ湾のドラグ(英語版)(ブルービーチ)への上陸後、10月23日にダグラス・マッカーサーやフィリピン・コモンウェルス第2代大統領セルヒオ・オスメニャらはタクロバンの政庁前で式典を行い、フィリピンの完全解放までフィリピン・コモンウェルスの臨時政府首都をタクロバンに置いた。