タクシン・チナワット
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タイ政治家タクシン・チナワット(丘 達新)?????? ???????

生年月日 (1949-07-26) 1949年7月26日(74歳)
出生地 タイ チエンマイ県
出身校タイ王国警察士官学校
前職警察官
所属政党タイ愛国党
配偶者Potjaman Na Pombejra
子女Panthongtae Shinawatra
Pintongtha Shinawatra
Peathongtarn Shinawatra
親族インラック・シナワトラ(妹)
サイン
第31代 タイ王国首相
在任期間2001年2月9日 - 2006年9月19日
国王ラーマ9世
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タクシン・チナワット(タイ語: ?????? ???????, 発音: [t?aks?n t??innawat] ( 聞く), 英語: Thaksin Shinawatra、漢字名:丘 達新 1949年7月26日 - )は、客家華系タイ人実業家政治家。タイ王国第31代首相、元人民代表院議員(下院議員)、マンチェスター・シティFC元会長、元警察官僚拓殖大学客員教授。タイ北部のチエンマイの出身で、華僑系の名門チナワット家の出である。第36代首相のインラック・シナワトラは妹。

「タクシン」の綴りは (??????) であり、トンブリー王朝の「タークシン (??????)」と異なる。あだ名はメーオ(モン族の意)。
来歴
警察官時代

タクシンはタイ王国警察士官学校第26期を首席で卒業し、1973年内務省警察局(現在の首相府警察局)に警察少尉として任官する。当初は国境警備隊に所属していたが、半年後局内でアメリカ留学の機会を得て渡米。イースタン・ケンタッキー大学で刑事司法修士をわずか4ヶ月で終え帰国。1976年に警察中将の娘ポチャマーン・ダーマーポン(????? ????????, Potjaman Damapong)と結婚し、同年再び渡米。1978年タイ仏歴2521年)、サム・ヒューストン州立大学で刑事司法博士(doctor of criminal justice)を取得して首都警察参謀局政策企画副局代理顧問の地位に就いた。

警察官僚としての彼の最終的な階級は警察中佐(?.?.?.)で、軍人や警察官は退役・退官しても終生その階級を名前に冠するタイの慣習に基づき、首相在任時から2015年9月5日までタイでの呼び名は「タクシン・チナワット警察中佐」(?????????? ?????? ???????)であった。タイの公務員、とくに警察官は非常に給料が低く、そのため彼は以前から副業を持っていたが、こういった例はそれほど珍しいものではない。

なお、2015年9月6日をもって、プラユット政権による暫定憲法44条の行使で、タクシンの警察中佐の階級は剥奪された[1]
企業家時代

副業としてまずシルク販売を行った。この他、移動映画などの事業を行い、巨額の富を稼ぎ出した。しかし、この次は不動産会社を設立し、コンドミニアム販売に失敗。彼の企業は一挙に5000万バーツ(日本円で約1億5000万円)の負債を抱え込んだ。

事態打開のために今度は警察向けにコンピュータを貸し出すサービスを開始するが、バーツ切り下げによって、さらなる赤字を生み出し2億バーツ(日本円で6億円)とも言われる赤字を生み出した。その後タクシンは数々の企業に手を出すがどれも大した業績を上げることがなかった。

1986年4月24日(タイ仏歴2529年)、タクシンは携帯電話サービスの営業権を政府から獲得してAISという携帯電話会社を立ち上げた。この企業は成功を収め、タイでの携帯電話の普及に伴って黒字を拡大し、タイを代表するコミュニケーション会社となった。今ではチナワット家はタイ国一の富豪と言われる。この後、1987年タイ仏歴2530年)、警察を辞職し、シナワトラ・コンピューター・アンド・コミュニケーションズ社(注:英語直訳、現シン・コーポレーション社)を設立し、警察時代のコネクションを生かして警察機関にコンピュータの貸し出しを行った。
政治家時代

タクシンは1994年パランタム党に入党し、政治活動を始めた。その後外務大臣に任命されるが、タイの憲法では大企業の株主は大臣になれないため辞職した。そのため、株の名義を妻や、自分の運転手名義に書き換え(後に所得隠しとの批判を受ける)、関連会社の名前に「チナワット」とあるのをすべて「シン」と書き変えた。しかし、パランタム党はこの後1997年内部崩壊したため、翌年タクシンは、タイ愛国党を創設し、2001年タイ仏歴2544年)政権に就いた。

政治家時代は自己の出身地であるタイ北部の利権を拡大する政策をおこなっていたため、タイ中部及び南部貧困層の激しい反発を受け、後のクーデターにつながることになる。また、低額の医療制度などばらまき的な手法で低所得層から人気を博した一方、軍や官僚など旧来のエリート層と対峙した[2]
辞任要求デモと退陣

2006年1月、タクシン一族はシン・コーポレーションをシンガポールの会社に733億バーツで売却した。この売却益に対する課税が節税工作により2500万バーツにすぎなかったため批判を浴びた。タクシンは国民の信を問うために2月24日に下院を解散した。3月になりバンコクで退陣を求めるデモが活発化した。4月2日に総選挙が行われたが野党はボイコットし、白票が相次いだ。与党が勝利したものの、400選挙区中39選挙区で有効票が規定に達しなかったため再選挙が決定した。

日本時間2006年4月4日午後11時に国王に退陣を表明、次期首相が決まるまで休養に入った。当面の間、首相の職務はチッチャイ・ワンナサティット副首相が代行することとなった。しかし、実際には暫定首相としてタクシン首相が職務を行い国民からの反発を招き、2006年9月19日のクーデターに繋がった。

これ以降、タイではクーデターやデモ、暴動が相次ぎ、今日まで政治混乱が続くことになる。
事実上の亡命生活

2006年9月20日、滞在していたニューヨークからロンドンに移動したが、事実上の亡命となった。2008年2月28日にはタイに帰国するも8月には北京オリンピックに出席するとして出国してから帰国せず、その後、2008年11月8日に英国政府がビザの停止を発表。NHKが2009年3月にドキュメンタリー「沸騰都市」で行った電話インタビューでは「所在を転々としている」と明かしていた。

2008年10月に自身の妻の土地取引に関する裁判が行われ、欠席裁判のまま有罪判決を受けている。ともに有罪判決を受けた妻とは同年11月に離婚している。元妻は2011年8月24日に無罪の判決を受けている。このため帰国すれば収監されることになるので、タイに戻れない状態が長く続いた。それでも祖国タイに対して未練があるようで、2011年4月23日にタイ貢献党(新党プアタイ)が開催した党大会にテレビ電話で参加し、声を震わせながら「タイに帰りたい」と語っている。

2009年11月4日、カンボジアフン・セン首相の経済顧問に就した。フン・センはもともと親タクシン派で、当時のアピシット民主党政権を挑発していたが、これもその一環と思われた。しかしタクシンが実際にカンボジアに滞在することはなく、「職務を遂行することが難しい」という理由で、翌年8月24日に辞任した。

2010年4月の報道では、南東欧モンテネグロの国籍を取得し、同国に滞在中と報じられている。また、その後の報道では中米ニカラグアやアフリカ東部ウガンダの国籍を取得したとも報じられている。2009年にタイ政府発行の一般旅券・外交旅券(パスポート)を剥奪されたので、3か国の旅券を使用しているとみられている。現在はドバイを中心に活動し、モンテネグロ・ニカラグア・ウガンダの旅券を使用して各国を移動しているとみられている。また2011年3月の報道では、反独裁民主戦線(UDD)が19日に行った反政府デモの最中に国際電話で「ヨーロッパの寒い国にいる」と話したと報じられている。その後も反独裁民主戦線(UDD)の反政府デモや抗議集会にテレビ電話やビデオメッセージなどで参加している。

2011年7月3日、母国タイで下院総選挙が行われ、自身の妹であるインラック・シナワトラが率いるタイ貢献党が過半数の議席を獲得した。これにより、インラックが首相となることが確実となった。インラックは兄の処遇という問題を抱えることになったが、これに関しては明言を避けた。翌7月4日放送のNHKのニュース番組「ワールドWave」の中でアラブ首長国連邦ドバイでインタビューを受けている様子が放送され、総選挙を控えたタイへの思いを語っている。


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