タウンゼンド諸法
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タウンゼンド諸法導入の急先鋒チャールズ・タウンゼンドジョシュア・レノルズ画、1765年頃)。諸法の有害な影響が表れ始めたころには、すでにこの世になかった。

タウンゼンド諸法(タウンゼンドしょほう、英語: Townshend Acts)は、イギリス帝国の議会1767年以降に成立させた、英領アメリカの植民地に関する一連の法令を指す。計画の提唱者である財務大臣チャールズ・タウンゼンドにちなみ、タウンゼンド諸法と名づけられている。どこまでを「タウンゼンド諸法」に含めるかは研究者間で若干の相違があるが、おおむね5つ法令の中から言及される。1767年の歳入法、補償法、関税委員法、副海事裁判法、ニューヨーク制限法である[1]

タウンゼンド諸法の目的は、植民地からの税収増をもって現地の総督と判事の俸給に当て、植民地のルールから総督や判事を独立させること、法の徹底による貿易統制をより効果的に推進できる体制を整えること、1765年の宿営法に応じようとしないニューヨーク植民地を処罰すること、本国議会が植民地に対する課税権を有するという先例を確立することである[2]。タウンゼンド諸法は植民地側の抵抗に会い、1768年にはイギリス軍がボストンを占拠する事態にいたり、やがて1770年のボストン虐殺事件に発展した。

ボストン虐殺事件の結果、本国議会はタウンゼンド関税の一部撤廃の動議を諮った[3]。そして新しく導入された税のほとんどは撤廃されたが、茶への課税は継続された。本国政府は植民地の同意を得ないままに課税することを試み続けたが、結局、ボストン茶会事件が起き、そしてアメリカ独立革命が始まるのである。
背景

七年戦争(1756年 - 1763年)を戦い抜いたイギリス帝国は重い負債にあえいでいた。新たに獲得した版図にかかる費用負担の一助として、グレートブリテン議会(以下「本国議会」)は北米植民地からの徴税を決定した。以前に航海法を制定したときは、課税は帝国の貿易に統制をはかるための手段にすぎなかった。しかし1764年の砂糖法では、これまでになく、歳入増という目的を前面に出して植民地に税を課すことを模索した。北米植民地の人々が砂糖法に反対したのは、最初は経済的な理由からだったが、憲法上の問題が含まれていることに気づくのにそう時間はかからなかった[4]

憲法によれば、イギリス臣民は、本国議会における自分たちの代表の同意なくして税を課されることがあってはならないとされていた。植民地は本国議会に議員を選出していなかったため、植民地の多くの人々は、自分たちに税を課そうとする本国議会の試みは、同意によってのみ課税を可能にすることを謳った憲法の理念に反していると考えた。これに対し、本国議員の一部は「事実上の代表」という論法をもって対抗した。つまり、たとえ選挙によって選ばれた議員がいないにせよ、植民地の意見は実際に本国議会で反映されているというのである。この論題は、砂糖法の頃はまだささやかに討論されたにすぎなかったが、1765年の印紙法成立時は主要な論点となった。印紙法は植民地から広く批判を浴び、翌年、やむなく本国議会はこれを撤廃した。

印紙法をめぐる議論のその奥底には、税制や代議制よりももっと基礎的な問題が潜んでいた。すなわち、本国議会は植民地に対する主権を有するのかどうかという疑問である[5]。これ対する回答として本国議会は、1766年に印紙法を撤廃すると同時に宣言法を成立させ、本国議会が植民地に対する立法を「ありとあらゆる場合において」行いうるとした[6]
タウンゼンドの計画
歳入増

タウンゼント関税の対象と税率(抜粋)[7]課税対象課税単位関税率
茶1ポンド3ペンス
低品質紙1連(480枚)3ペンス
高品質紙1連(480枚)12シリング
塗料100ポンド2シリング
鉛100ポンド2シリング
ガラス100ポンド4シリング8ペンス

タウンゼンド諸法の中でまず最初に成立したのが、単数形でタウンゼンド法とも呼ばれる、1767年の歳入法である[8]。これは、1766年の印紙法撤廃後、なおもアメリカ植民地からの税収入を得ようとしたチャタム内閣が打ち出した新しい方策である[9]。本国政府の見たところ、植民地が印紙法に反対した理由は、それが直接税(あるいは「対内税」)であったということに根底を発しており、ゆえに、輸入にかかる税のような間接税(あるいは「対外税」)であれば受け入れられるものと考えた[10]。これを念頭に、当時の財務大臣チャールズ・タウンゼンドは、植民地に輸入された茶、紙、塗料、鉛、ガラスといった品々に新たに税金を課すという案を練った[11]。いわゆるタウンゼンド関税である。これらの品々は、北米では生産されておらず、植民地はイギリス本土以外から購入することを認められていなかった[12]

本国政府は、印紙法が反対された理由を誤解した結果、植民地は「対外税」であれば許容すると思い込んだ。だが植民地が「対内税」に反対したのは「対外税」ならば受け入れるということを意味するものではない。植民地のスタンスは、本国議会の決による歳入増を目的とする課税は、いかなるものであれ違憲であるというものだった[10]。歴史研究者ジョン・フィリップ・レイドは、「タウンゼンドは、アメリカは対内税は違憲で対外税は合憲とみなしていると誤信していた。この誤信は、独立へと連なる歴史展開においてきわめて重大なものであった」と書き述べた[13]。歳入法は1767年6月29日に勅許を得た[14]。このとき、本国議会ではほとんど異論が出なかった。「歴史を大きく揺るがした法律が、これほど平穏無事に通過したのは他に類をみない」と、歴史研究者のピーター・トーマスは書いている[14]


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