タウンゼント・ハリス
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タウンゼント・ハリス
Townsend Harris


初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使
任期
1859年11月5日 ? 1862年4月26日
大統領ジェームズ・ブキャナン
エイブラハム・リンカーン
後任者ロバート・プルイン

個人情報
生誕 (1804-10-03) 1804年10月3日
アメリカ合衆国ニューヨーク州ワシントン郡サンデーヒル(英語版)
死没 (1878-02-25) 1878年2月25日(73歳没)
アメリカ合衆国・ニューヨーク州ニューヨーク
国籍 アメリカ合衆国
職業外交官
宗教聖公会

タウンゼント・ハリス(英語: Townsend Harris, 1804年10月3日 - 1878年2月25日)は、アメリカ合衆国外交官、初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使民主党員、聖公会信徒。「タウンゼンド・ハリス」とも表記される。

江戸時代後期に訪日し、日米修好通商条約を締結したことで知られる。
生涯
苦学の末に貿易業を開始

1804年10月3日ニューヨーク州ワシントン郡サンデーヒル(後のハドソン・フォールズ(英語版))に父ジョナサン・ハリスの六男として生まれる。家系はウェールズ系。

家が貧しかったため、小学校・中学校を卒業後はすぐ父や兄の陶磁器輸入業を助け、図書館などを利用して独学でフランス語、イタリア語、スペイン語を習得し、文学を学ぶ。その苦学時代の体験が、長じて教育活動に目を向けることとなり1846年にはニューヨーク市の教育局長となり、1847年に高等教育機関「フリーアカデミー」(現・ニューヨーク市立大学シティ・カレッジ)を創設。自らフランス語、イタリア語、スペイン語を教えるなど、貧困家庭の子女の教育向上に尽くした。そのほか、医療や消防などの公共事業に携わる。1848年に辞職。

家業の経営が悪化したため、ハリスは1849年にはサンフランシスコで貨物船の権利を購入し、貿易業を開始する。ニュージーランドインドマニラなど太平洋を中心に各地を航行して、以前から興味を抱いていた東洋に腰を落ち着ける。1853年には日本への第1次遠征を行っていたマシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が清に滞在しており、上海にいたハリスはペリーに対して日本への同乗を望むが、軍人でないために許可を得られなかった。
アジアでの活動を経て初代駐日領事に

ハリスは国務長官など政界人の縁を頼って政府に運動し、1854年3月、台湾に関するレポート「台湾事情申言書」を提出。4月には寧波領事に任命される。アメリカへ帰国したハリスは、同年に日本とアメリカとの間で調印された日米和親条約の11条に記された駐在領事への就任を望み、政界人の推薦状を得るなどして、1855年に大統領フランクリン・ピアースから初代駐日領事に任命される。ハリスは日本を平和的に開国させ、諸外国の専制的介入を防いでアメリカの東洋における貿易権益を確保を目的に、日本との通商条約締結のための全権委任を与えられる。また、シャムとの通商条約締結も命じられた。当時、イギリスの駐日公職者は母国政府から派遣されたエリート出身者がほとんどだったが、アメリカはハリスのような在住の商人らに兼任させることが多かった[1]

ハリスは通訳兼書記官としてオランダ語に通じたヘンリー・ヒュースケンを雇い、1856年に出発。ヨーロッパからインド経由で4月にはシャムへ到着、バンコクにおいて通商条約の締結に尽力する。さらに香港経由で8月21日(安政3年7月21日)に日本へ到着し[2]伊豆下田へ入港する。
日米修好通商条約 締結、初代駐日公使へ日米修好通商条約外務省外交史料館蔵)

日本では通訳の不備などから、対応にあたった下田奉行・井上清直に入港を拒否されるなどのトラブルもあったが、折衝の末に正式許可を受け、下田玉泉寺に領事館を構える。ハリスは大統領親書の提出のために江戸出府を望むが、幕閣では水戸藩徳川斉昭攘夷論者が反対し、江戸出府は留保された。下田においては薪水給与や回比率などの問題を巡り和親条約改訂のための交渉が行われ、1857年6月17日(安政4年5月26日)には下田協定が調印される。この頃からハリスは体調を崩し幕府に看護婦を要請した。幕府はハリスの籠絡を目的として芸者の斎藤きちを送り3ヶ月だけ看病に入っている(→唐人お吉)。

ハリスはたび重ねて江戸出府を要請し続けていたが、1857年7月にアメリカの砲艦が下田へ入港すると、幕府は江戸へ直接回航されることを恐れてハリスの江戸出府、江戸城への登城、将軍との謁見を許可する。ハリス、ヒュースケンらの一行は1857年10月に下田を出発し、下田の人々によって作られた手作りの星条旗を掲げ、公式の使節として200マイルの道程を江戸に向かった。移動に際して東海道は幕府によって一般の通行が規制されたが、ハリスが江戸に着く頃には多くの群集が米国総領事の到着を一目見ようと集まった[3]。江戸では蕃書調所に滞在して登城の日取りが決められ、12月7日(旧暦10月21日)に登城し、13代将軍徳川家定に謁見して親書を読み上げている。将軍を前に、穏やかで落ち着いたハリスの態度は同席した日本人に感銘を与えた[3]

1858年(安政5年)には大老となった井伊直弼が京都の朝廷の勅許無しでの通商条約締結に踏み切り、日米修好通商条約が締結された。ハリスは軍事力を使うことなく、自らの決断力と幕府の役人達の協力を得て、条約署名という使命を果たすことに成功したのだった[3]。これによりハリスはブキャナン大統領より任命され初代駐日公使となり[3]、下田の領事館を閉鎖して、1859年7月7日(安政6年6月8日)に江戸の元麻布善福寺に公使館を置く[4]。ハリスは、日米修好通商条約に本国人の宗教の自由を認め、居留地内に教会を建てて良いとする第8条を加えたが、これによって宣教師の来日が可能となった[5]
長崎訪問、長崎米国領事選任と学校開設・ミッション支援


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