タウンズ・ヴァン・ザント
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タウンズ・ヴァン・ザント
Towns Van Zandt
出生名John Townes Van Zandt
生誕 (1944-03-07)
1944年3月7日
出身地 アメリカ合衆国 テキサス州フォートワース
死没 (1997-01-01) 1997年1月1日(52歳没)
アメリカ合衆国 テネシー州スマーナ
ジャンルカントリーフォークブルース
職業歌手ミュージシャンシンガーソングライター音楽プロデューサー編曲家
担当楽器ギターボーカル
活動期間1965年 - 1996年
レーベルポピー、トマト・レコード、シュガー・ヒル、TVZ、ファット・ポッサム・レコーズ
共同作業者ブレイズ・フォーリー、ガイ・クラーク、スティーヴ・アール、ライトニン・ホプキンス、ミッキー・ニューベリー
公式サイト ⇒www.townesvanzandt.com

タウンズ・ヴァン・ザント(Towns Van Zandt)として知られるジョン・タウンズ・ヴァン・ザント[1](John Townes Van Zandt、1944年3月7日 ? 1997年1月1日)は、アメリカシンガーソングライター[2][3]。「パンチョと左きき」「For the Sake of the Song」「Tecumseh Valley」「Rex's Blues」「To Live Is to Fly」といった数多の曲を書き、これらは広くアメリカにおけるソングライティングの名作とみなされている。ヴァン・ザントの音楽スタイルはしばし憂鬱で、豊かで詩的な歌詞によって特徴づけられると解説されている。若いころにはギター演奏とフィンガーピッキングのテクニックで尊敬を集めていた。

1983年にエミルー・ハリスによって世間に知られるようになった6年後、ウィリー・ネルソンとマール・ハガードによる「パンチョと左きき」のカバーはビルボード・カントリー・チャートの1位となった[2][4]。ヴァン・ザントの生活のほとんどは様々な大衆酒場へのツアーであり[5]、しばしば安モーテルの部屋や、僻地の小屋で暮らしていた。1970年代のほとんどの間、電気も電話もない簡素な小屋に住んでいた。

ヴァン・ザントの影響はいくつものジャンルにわたる無数のアーティストにおよび、彼の楽曲はボブ・ディランウィリー・ネルソン、マール・ハガード、ノラ・ジョーンズ、エミルー・ハリス、カウンティング・クロウズ、スティーヴ・アール、ロバート・アール・キーンJr.、ナンシー・グリフィス、ガイ・クラーク、ウェイド・ボウウェン、ギリアン・ウェルチ、パット・グリーン、コルター・ウォール、ジェイソン・イズベル、カルヴィン・ラッセル、ナタリー・メインズ、フランク・ターナーによってレコーディングや実演が行われている。

ヴァン・ザントは一連の薬物中毒[6]アルコール依存症[6]に苦しみ、双極性障害の精神医学的診断を受けた。若いころに今日では行われていないインスリン・ショック療法が施され、長期記憶の多くが失われることになった[7][8][9]

1997年の元日に長期にわたる薬物乱用に起因する不整脈で死去した[6]。ヴァン・ザントに対する興味は2000年代に再度花開いた[2]。この10年間に2冊の書籍、ドキュメンタリー映画(Be Here to Love Me)、そして歌手に関する数多くの雑誌記事が書かれた[2]
略歴
生い立ち

テキサス州フォートワースの裕福な家庭に生まれたヴァン・ザントはテキサス共和国の主たる指導者でだったアイザック・ヴァン・ザントの三人目の曾孫であるとともに、南軍の少佐でフォートワースの創始者のひとりのクレバー・ミラー・ヴァン・ザントの2人目の大甥である[7]

タウンズの両親はハリス・ウィリアムズ・ヴァン・ザント(Harris Williams Van Zandt、1913年-1966年)とドロシー・タウンズ(Dorothy Townes、1919年-1983年)である[10][11]。タウンズにはビル(Bill、1949年-2009年)とドナ(Donna、1941年-2011年)の2人の兄姉がいた。ハリスは企業内弁護士であり、1950年代と1960年代には仕事の都合で家族を引き連れて何回も引っ越すことになった[12]。1952年、一家はフォートワースからモンタナ州ビリングスに移る6か月前にテキサス州ミッドランドに入植した。

1956年のクリスマス、父親がタウンズに田舎をさまよう間に練習することになるギターを与えた[13]。後にインタビューに対して「1956年10月28日に『エド・サリヴァン・ショウ』でエルヴィス・プレスリーのパフォーマンスを見たことが、ギター奏者になろうとした出発点だった……エルヴィスは世界中の全てのお金、全てのキャデラック、全ての女の子を手にしていて、それがギターを弾いて歌うだけなんだ。これは私に強烈な印象を与えた」と語っている[1]。1958年、一家はコロラド州ボルダーに引っ越した。タウンズはコロラド時代のことを愛情をこめて思い出し、大人になっても頻繁に訪れた。後に「My Proud Mountains」「Colorado Girl」「Snowin' on Raton」などの曲で、コロラドを引き合いに出している。タウンズは優秀な生徒であり、チームスポーツに熱心だった[14]。小学校での知能テストの結果、高い知能指数が認められたので両親はタウンズを弁護士か上院議員にすべく面倒を見始めた[8]。家族が再び引っ越すのが嫌だったので、自分から進んでミネソタ州フェアボールトにある寄宿学校に入学した[15]。1962年1月のSATで1170点を獲得した[16]。彼の家族はほどなくテキサス州ヒューストンに転居した。

コロラド大学ボルダー校は、1962年にヴァン・ザントを学生として受け入れた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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