タイ・カッブ
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タイ・カッブ
Ty Cobb
タイ・カッブ (1913年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ジョージア州ナローズ
生年月日1886年12月18日
没年月日 (1961-07-17) 1961年7月17日(74歳没)
身長
体重6' 1" =約185.4 cm
175 lb =約79.4 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション外野手 (主に中堅手)
プロ入り1904年
初出場1905年8月30日
最終出場1928年9月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


デトロイト・タイガース (1905 - 1926)

フィラデルフィア・アスレチックス (1927 - 1928)

監督歴


デトロイト・タイガース (1921 - 1926)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1936年
得票率98.23%
選出方法BBWAA選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

タイラス・レイモンド・カッブ(Tyrus Raymond "Ty" Cobb, 1886年12月18日 - 1961年7月17日[1])は、アメリカ合衆国ジョージア州ナローズ出身のプロ野球選手外野手)。アメリカ野球殿堂入りの第1号選手の一人である。
概要

メジャーリーグベースボール(MLB)で1905年から1928年まで、通算24年間プレイした。

1920年以前のデッドボール時代(飛ばないボールの時代)を代表する選手の1人。ジョージア州の出身であったことから「ジョージア・ピーチ(The Georgia Peach)」のニックネームで呼ばれた[2][注 1]

1909年にはMLB史上唯一の打撃全タイトル制覇を達成。ピート・ローズに破られるまでメジャーリーグ歴代1位の4191本の安打を打った。現在でも、通算打率.367や12回の首位打者獲得など数々のMLB記録を保持しており、球聖として称えられている。

選手の権利というものを最初に訴えた選手である一方、悪評も有名な人物であり、「最高の技術と最低の人格」「メジャーリーグ史上、最も偉大かつ最も嫌われた選手」とも評された。
経歴
生い立ち

1886年12月18日、ジョージア州バンクス郡ナローズで3人兄弟の長男として生まれ、ロイストンで育つ。母親であるアマンダは12歳で結婚し、15歳でカッブを出産した。父親のウイリアム・ハーシェル・カッブは数学者で教師であり、ジョージア州の学校長の後にジョージア州上院議員を務めるなど、地元の名士として有名な人物で厳格な教育者であった[3]

カッブ家はイギリス貴族の血を受け継いでおり、名家として知られ、有名な人物を多く輩出していた(その中には、アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンも姻戚関係にあった)。そういった特別な目で見られることをひどく嫌ったカッブは、父親の意向に反し教育者になる気は全くなく、14歳頃から野球に興味を持ち、熱中するようになった[4]。父親は息子がごろつきになるのではないかと心配し、野球をしていたカッブに、「偽りの道は地獄に通じる。だから、常に正義をふまえ、正直に謙虚にふるまいなさい」と口癖のように言い聞かせていた。カッブは、その言葉通り大きなトラブルもなく成長していった。

1903年、17歳の時にマイナーリーグのサウス・アトランティック・リーグの各球団に手紙を出し、やっとオーガスタ・ツーリスツのテストを受けたが不合格となる。その後、たまたま友人に独立リーグのアニストン・スティーラーズに行こうと誘われたカッブは、父親に電話で相談した。父親のウイリアムは「追いつづけてみろ。失敗したといって家に帰ってくるな」と言い、この一言でカッブはアニストン球団行きを決意した[5]
プロ入りタイ・カッブのバッティング

1904年、独立リーグのアニストン球団に在籍していた時、地元のアトランタ・ジャーナル紙の運動部長グラントランド・ライスのもとに「タイ・カッブという選手が大活躍した」「間違いなく大物だ」「未来の大選手だ」という内容の手紙が連日送られてくるようになり、ライス運動部長はその投書をもとに記事を書いた。それによって無名だったカッブは評判になり、入団テストで一度落ちていたマイナーリーグの地元球団オーガスタ・ツーリスツから注目され、同球団はトレード・マネーを払ってカッブを獲得した。実はこの大量の投書をしていたのはカッブ本人であった[注 2]

1905年、18歳でオーガスタ・ツーリスツでも打ちまくり、マイナーリーグトップとなる打率.326を残し、頭角を現す。そしてデトロイト・タイガースのスカウトの目にとまり、8月19日にタイガースと契約してメジャーリーグ入りが決まった[6]

しかしこの直前1905年8月5日、カッブがまだ寮生活をしていた最中に、父ウイリアムが母アマンダにライフルで撃たれて死亡する事件が起こる(#両親の事件について参照)。
タイガース時代

デトロイト・タイガースに移籍して、父親の葬儀を終えた10日後にメジャーリーグに昇格したカッブは、8月30日にニューヨーク・ヤンキース前身のハイランダーズ戦でメジャーデビューを果たし、メジャー初安打となる二塁打を放ったが、その相手投手は後に殿堂入りするジャック・チェスブロだった[7]。しかしそこで恒例であった新人歓迎[注 3]でいきなり暴力沙汰の騒ぎを起こした。同年の成績は41試合出場で打率.240で終わっている。

1906年は体調不良などで98試合に出場しただけだったが、後半戦からレギュラーに定着し、打率.316という好成績を残した。
9年連続首位打者・三冠王・4割打者

1907年、打率.350・119打点・49盗塁の成績で当時史上最年少で首位打者になる(同年以降、24年間の現役生活で打率.323を下回る事はなかった)。更に最多安打、打点王、盗塁王にもなり、本塁打もリーグ2位を記録し、3年目にしてブレークした。サム・クロフォードと共に打線を引っ張る存在となり、カッブの登場により、それまで優勝とは縁のない目立たないチームだったタイガースは大きく飛躍した。同年にチームは初のリーグ優勝を果たす。

1908年にもカッブは首位打者、最多安打、打点王の三冠を獲得し、チームは2年連続でリーグを制した。1908年、契約書にサインするカッブ。この時の年俸額は5,000ドルであった。

1909年には打率.377・9本塁打・107打点・76盗塁を記録し、3年連続の最多安打、打点王、首位打者に加え、本塁打王、盗塁王を獲得。現在に至るまで唯一の打撃全タイトル制覇(当時はタイトルでなかったものを含む)を達成。さらに得点数、塁打数、出塁率、長打率、OPSを含め合計10部門でリーグトップであり、得点以外はMLB全体でもトップとなっている。一方でこの頃にはカッブの勝利への執念は常軌を逸したものとなり、相手球団の反応を研究するために無謀で大胆なプレーをしばしば試すようになった[8]。様々な形のプレーを試していたが、特に首位を争っていたフィラデルフィア・アスレチックスとの対戦で、半ば反則紛いのラフプレーを行ったとされることが有名になる(詳細は#野球選手としてを参照)。他球団からのカッブの評判は最悪なものだったが、こうしたカッブの執念が実を結び、チームはリーグ3連覇を果たした。また同年のカッブの本塁打は全てランニング本塁打で、これは三冠王唯一の記録であり、さらに史上最年少での三冠王達成となった[注 4]。7月15日には一日に2本のランニング本塁打を放っている。

1910年、最終日を残して首位打者を確信していたカッブは、眼の病気などもあり.385の打率を維持するために残り試合を欠場した。しかし打率.376だったナップ・ラジョイセントルイス・ブラウンズとのダブルヘッダーに8安打し打率.384とカッブを猛追した。ところがそのうちの7本は三塁へのバント安打で、これは相手チームのジャック・オコナー監督がカッブを強く嫌っていたのと、当時人気の高かったラジョイにタイトルを勝ち取らせるために、三塁手へ後ろに下がってプレーするよう命じた結果のものだった。


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