タイム
現地語社名Time Inc.
元の種類公開会社
市場情報NYSE: TIME
業種.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}
デジタルメディア
出版
イベント
タイム(Time Inc.[注釈 1])は、かつてアメリカ合衆国にあった、ニューヨークに本社を置いていた世界的なマスメディア企業である。その名を冠した『タイム』のほか、『フォーチュン』『ピープル』『ライフ』『エンターテインメント・ウィークリー』『スポーツ・イラストレイテッド』など100以上の雑誌ブランドを所有し、発行していた。また、MyRecipes、Extra Crispy、TheSnug、HelloGiggles(英語版)、MIMIなど60以上のウェブサイトやデジタル専用タイトルも共同運営していた[6]。
1922年11月28日にヘンリー・ルースとブリトン・ハデンによって設立された。1990年、ワーナー・コミュニケーションズと合併して、メディアコングロマリットであるタイム・ワーナーを設立した。2014年6月9日に再びタイム社として分社化され[7]、ティッカーシンボルTIMEで株式を公開した[8]。2017年11月には、競合するメディア企業のメレディス・コーポレーションが28億ドルでタイム社を買収すると発表した。買収は2018年1月31日に完了した[9][10]。 1922年、ともに23歳のヘンリー・ルースとブリトン・ハデンは、ニュース雑誌を創刊することを考えて、勤めていた会社を辞めた。同年11月28日、2人はタイム社を設立した。10万ドルの目標のうち86,000ドルを集め、1923年3月3日にアメリカ初の週刊ニュース雑誌として『タイム』の創刊号が発行された[11]。ルースがビジネスマネージャー、ハデンが編集主幹を務めた。ルースとハデンは毎年、社長と書記会計を交代で務めていた。1929年にハデンが急死すると、ルースがハデンのポジションを兼任した。 ルースは1930年2月にビジネス雑誌『フォーチュン』、1936年に写真雑誌『ライフ』、1952年に『ハウス&ホーム』、1954年にスポーツ雑誌『スポーツ・イラストレイテッド』を創刊した。彼はまた、ラジオ番組やニュース映画のシリーズ『マーチ・オブ・ザ・タイム
歴史
創業
フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、ほとんどの出版社が自分に反対していることを認識していたため、1943年に、全ての出版社とメディアの幹部に対し戦闘地域を訪問することを禁止する命令を出した。ルーズベルトはジョージ・マーシャル将軍にその命令の施行を担わせた。その命令の主なターゲットは、ルーズベルトに長い間反対していたルースであった。歴史家のアラン・ブリンクリー(英語版)は、もしルースが戦闘地域の訪問を許可されていたら、彼は世界中のアメリカ軍を熱狂的に応援していただろうとして、この動きは「間違っていた」と主張している。しかし、ニューヨークで足止めを食らったルースのフラストレーションと怒りは、あからさまな党派性を以て表現された[13]。ルースは1944年に、編集長のT・S・マシューズ(英語版)の支持を得てウィテカー・チェンバース(英語版)を外国報の臨時編集長に任命したが、チェンバースは現場の記者との確執を抱えていた[14]。
1963年、アメリカ郵政省がZIPコード(郵便番号)を導入したが、これはタイム社の重役のデビッド・ブランボーがタイム社での雑誌の配送方法について説明したことがきっかけだった。1950年代、ブランボーは郵政省にプレゼンテーションを行い、タイム社がゾーニングシステムを使用して雑誌の配達をスピードアップしていることを説明した。郵政省は1943年にゾーニングを導入していたが、それは全米に一貫して適用されていなかった。当時のタイム社の社内報「FYI」のブランボーの回想によれば、適切にゾーニングされていた都市は40%以下だった。彼は郵政省へ行って、どのようにしてゾーンシステムを機能させているかを見せた[15]。
1964年までタイム社の全ての出版物の編集主幹を務めたルースは、共和党の有力なメンバーとしての地位を維持した[12]。反共主義的な感情を持ち、共産主義との戦いという名目で『タイム』を利用し、右翼の独裁者を支持した。いわゆる「チャイナ・ロビー」の後ろ盾となった人物であり、中国国民党の指導者である?介石とその妻である宋美齢による対日戦争を支持するようにアメリカの外交政策や国民感情を舵取りする上で大きな役割を果たした(『タイム』誌の表紙には、1927年から1955年までの間に11回、?介石と宋美齢が登場している[16])。