タイタニック号沈没事故
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タイタニック号沈没事故Untergang der Titanic ("タイタニック号沈没")
ウィリー・ストーワー, 1912
日付1912年4月15日 (112年前) (1912-04-15)
時刻23:40 ? 02:20
場所北大西洋
原因氷山との衝突 1912年4月14日
関係者主要人物



エドワード・ジョン・スミス (船長)

ヘンリー・ワイルド (航海士長)

ウィリアム・マクマスター・マードック (一等航海士)

チャールズ・ライトラー (二等航海士)

ジョセフ・ブルース・イズメイ (ホワイト・スター・ラインの経営者)


結果

1,490 から 1,635 人の死者


航海の安全性の改善

文化的な影響

タイタニック号沈没事故(タイタニックごうちんぼつじこ)とは、1912年4月14日の夜から4月15日の朝にかけて、イギリスサウサンプトンアメリカ合衆国ニューヨーク行きの航海中の4日目に、北大西洋で起きた海難事故である。

当時世界最大の客船であったタイタニックは、1912年4月14日の23時40分(事故現場時間)に氷山に衝突した時には2,224人を乗せていた。事故発生から2時間40分後の翌4月15日の2時20分に沈没し、1,514人が亡くなり、710人が生還した。これは1912年当時、海難事故の最大死者数であった[注 1]

自然のものが要因となってる海難事故としては現在まで史上2番目の海難事故である(1番はジョラ号沈没事故、3番は日本洞爺丸事故)。
事故概要

ニューヨーク港に向けて航行中に「海氷が存在する」という警告を4月14日中に7件受けていたにもかかわらず、タイタニック号の見張りが氷山に気付いたとき船は最高速に近いスピードで進んでいた。衝突を避けようとしたが、船は右舷側に斜方向からの打撃を受け、全16区画のうち5つの区画に穴が開いてしまった。

タイタニックの船首部は4つの区画が浸水しても沈まないように設計されていたが、それでも十分ではなく、敏感なクルーはこの船が沈没することを察知した。クルーは遭難信号灯と無線で助けを求め、乗客を救命ボートに乗せた。しかし、それは近くの救助船までの移乗用として簡易的に設計されたもので、搭載数もすべての乗船者を載せるにはあまりに少ないものだった。

船体沈没の進行は予想よりも早かった。やむなくボートには女性と幼い子供が優先的に乗せられ、多くの男性は強制的に排除されたが、クルーも救助活動に不慣れな者が多く、定員に満たないまま出発するボートもあった。結果的に多数の乗客乗員が船に取り残された。

タイタニックは1,000人以上を乗せたまま沈んだ。海に浸かった人のほとんどが数分後に低体温症により死亡した。救助にあたった客船「カルパチア」が4月15日の9時15分に最後の1人を救い上げた時は、既に船の沈没から7時間、衝突から実に約9時間半が経っていた。

この災害は、救命ボートの数、緩い規則、旅客の等級によって異なる避難時の対応など、ずさんな危機管理体制が多くの人の義憤を引き起こした。この事故をきっかけとして救助のあり方が見直され、1914年に海上における人命の安全のための国際条約(SOLAS)が作られた。これは今も海の安全を守っている。
1912年4月14日
氷山の警告 (9時00分?23時39分)プリンツ・アダルベルト号の乗組員が1912年4月15日に撮影した氷山。タイタニック号が衝突した氷山だと考えられている。

1912年4月14日、タイタニック(呼出符号: MGY)の無線オペレーターは他の船舶から漂流している氷について6件の警告の通信を受け取っており、タイタニックに乗船している人々の中にも、この日の午後にそのことを知った者がいた。北アメリカの海における氷の規模は、4月としては過去50年間で最大であったが、見張りの者はタイタニックが幅も長さも何マイルもあるような氷山群に向かって突き進んでいることに気付いていなかった[1]。また、オペレーターもこうした通信を逐一中継していなかった。

船舶での無線電信による公衆通信(電報サービス)は1900年に商用化されていたが、その後しばらくの間は、船舶無線局は海運会社のものではなく、無線会社の管轄下にあり、船に設置する無線機やアンテナは勿論、無線オペレーターも無線会社に所属していた。当時の大西洋定期航路を運航していた英国の大手海運会社のほとんどは、英国系のマルコーニ国際海洋通信会社に公衆通信の業務を委託しており、タイタニックの無線オペレーターも同社の社員だった。彼らは船舶のクルーではなく、乗船客の電報サービス業務を第一義に乗船しており、気象についての報告は副次的な業務であった。

氷山と氷原に関する最初の報告は9時00分にカロニア号から届いた[2]。スミス船長はこのメッセージの受信確認を行っている。13時42分にはバルティック号がギリシャ船アテニア号から氷山と氷原の目撃情報を受け、タイタニックへ中継している[2]。このメッセージもスミスが受信確認し、ホワイト・スター・ラインのトップでタイタニックの処女航海に同乗していたJ・ブルース・イズメイに見せた[2]。その後スミスは航路を南寄りに変更した[3]

13時45分には、少し南側を航行していたドイツ船アメリカが「大きな氷山ふたつを通り過ぎた」という報告をした[4]。このメッセージはスミス船長にも、タイタニックの船橋にいた他の上級船員にも伝わらなかった。理由は定かではないが、無線オペレーターが機器の不具合を直さねばならなかったため、このメッセージの伝達を忘れたのではないかと言われている[4]

カリフォルニアンは19時39分に「3つの大きな氷山」の存在を報告、21時40分に汽船メサバ号が叢氷(そうひょう)・氷山・氷原の報告をした[5]。このメッセージもタイタニックの無線室に留め置かれたままになった。無線オペレーターのジャック・フィリップスニューファンドランド島のレース岬にある中継局を通して乗客のメッセージを送るのに気をとられて、この報告の重要性に気付かなかった可能性がある。2人のオペレーターも、前の晩に故障した無線機器のせいで溜まっていたメッセージの処理にかかっていた[4]。最後の報告は22時30分にカリフォルニアンのオペレーターであるシリル・エヴァンズから受信したもので、この船は数マイル先の氷床で一晩足止めを喰らっていた。しかしながらフィリップスはこのメッセージを遮り、「しゃべるな!しゃべるな!レース岬と通信中だ!」と答えたという[5]

クルーは近くに氷があることに気付いてはいたが、船は減速せず、最高速度である24ノット(時速44km、28mph)からたった2ノット(時速3.7km、2.3mph)遅いだけの22ノット(時速41km、25mph)で航行していた[4]。のちに、氷のある海域での高速航行は無謀だと批判されることとなったが、これは当時としては標準的な海洋航行の慣習を反映するものであった[6]

北大西洋の定期便では何よりも定時航行を最優先事項として、公示された時刻に必ず到着できるようスケジュールを厳しく守ることになっていた。したがって、しばしば限界に近い速度で航行せざるを得ず、危険に対する警告も、行動を要請するものというよりは単なる注意程度のものとして扱っており、氷も大したリスクではないと広く信じられていた。船の衝突を危機一髪でかわすことも日常的であり、正面衝突ですら今まで大事故にはなっていなかった。1907年にドイツの定期船クロンプリンツ・ヴィルヘルム号が氷山に激突して船首が大破することとなったが、それでも航海を完遂できた。同年、のちにタイタニックの船長となるエドワード・スミスは「船の沈没を引き起こすような状況は想像できない。現代の造船はそういうレベルを超えている」とインタビューで宣言していた[7]
「前方に氷山!」 (23時38分46秒)
衝突


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