タイの警察
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タイ王国国家警察庁(タイおうこくこっかけいさつちょう、タイ語:?????????????、英語:Royal Thai Police、RTP)は、タイ王国警察1933年に創設。「タイ国家警察」、「タイ警察」もしくは英語訳より、「タイ王立警察」とも記述される。
概要タイ王国国家警察官栗色と白のタイのパトカーチェンマイ県トゥクトゥクを用いたパトカー

タイ王国国家警察庁は、タイ国内の警察公務を行う。首相の直属の警察長官が長となり運営する局レベル組織。
歴史
初期の警察組織

タイ王国で初めて警察公務を行ったのは、アユタヤ王朝トライロークナート王であるといわれている。内務大臣、宮内大臣、大蔵大臣、農務大臣の四大臣による城市の統治制度を整えた際に、内務局(????????:城市局)に警察組織を創設し、ジャクリートシーオンラック(?????????????????????????)を長官に据えた。

さらに、タンマーティボーディーシーラタナモンティエンバーン(????????????????????????????????????)が長官になると、警察組織を首都警察、地方警察、王宮警護警察の三つに分割した。当時の警察官に選ばれる人物は、王が安心できるように良い家系の出自をもち、宗教、王室に忠誠を尽くす人物が選ばれ、国王が直轄した。警察長官の俸給となるサクディナー(賜田地)には、文官の基準が適用された。この時期、警察組織は王室の為に警護任務を遂行することに主眼があり、まだ王国全土の治安維持に拡大していくことはなかった。しかし、外国との交流が増え、国家の状況が変化していく中で、徐々に西欧諸国の様式の警察組織に変革されていくことになる。
警察の近代化

1860年から1932年までの間、西欧列強諸国がアジアに進出してきていた当時の国際政治状況の中で、タイは王国全土で西欧諸国に習った大規模な地方行政改革を行った。それに伴い警察組織も、地方の反乱を抑え、国内の治安維持を行う全国組織として急速に整備が行われた。

1862年イギリス人サミュエル・ジョセフ・バード・エームズがルワンラッタヤーピバーンバンチャーの官位を得、西欧諸国のような都市の治安維持を目的とした近代警察隊の創設を初めて提案した。

1876年には、A.J.ジャーディンを顧問に迎え、首都警備以外にも警察の職務が拡大し、地方警察を警察軍(?????????)に格上げした。それにより、地方の治安維持に当たりつつ、軍事行動も可能な組織に改組した。続いて、1877年デンマーク人G・ショウの提言により、警察軍を都市警護隊局(????????????????????)に改称した。

1892年には、都市警護隊局に代わり、地方警察局(????????????)を創設。ダムロンラーチャーヌパープ親王が大臣を務める内務省に置き、プラヤーワーステープ警察少将(G・ショウ)を地方警察局の局長に据えた。さらに首都省の下に首都警護局(?????????????、???????????)を置いた[1]

1901年、地方警察の幹部を養成するため地方警察士官学校をナコーンラーチャシーマー県に設立。1904年ナコーンパトム県フワイヂョーラケーに移転し、その後、現在のタイ王国警察士官学校となった。

1905年、地方警察の警察官に関して、軍の「徴兵法」に基づいて、徴兵で人員を確保することが決まった。

地方警察はさらに、イギリス人エリック・セイント・J・ローソンを顧問に迎え、警察公務の拡大・改革を行った。警察機構は当時、首都省警護局と内務省地方警察局の2つの省に分かれて運営が行われていた。

1915年10月13日、この2つの組織を一つの局に統合し、地方警察局および警護局(??????????????????????????)として一人の局長に統轄させた。現在、この日を記念して、『警察の日』として祝われている。同年終わりには局名を地方警察・首都警察局(?????????????????????????????)に改称。

1922年、内務省が首都省を吸収統合。内務省となる。

1926年、地方警察・首都警察局は再び地方警察局と首都警察局の二局に改組。地方警察局は犯罪者の逮捕、取り締まり、事件捜査、尋問を行い、県刑事裁判所において検事に起訴を行わせた。他方、首都警察局は同様の公務を行うが、起訴は首都圏裁判所(???????????)で行った。
立憲革命後

1932年立憲革命後、地方警察局は警察局(????????)と改称。内務省により4部門に改組。

第一部門:中央本部・局長執務所

総務課

会計課

学校課

事件課

入国管理課

登記課


第二部門:首都警察

第三部門:地方警察

第四部門:公安警察

立憲革命直後の警察の状況は、警察官人員と質の不足、装備不足、および劣悪な施設など多くの問題を抱えていた[2]。特に警官の質と人員は大きな問題であり、近代国家形成の中で国土全体に警察業務が拡大して行ったにもかかわらず、警察の人員は欠乏していた。そのため、徴兵によって人員の埋め合わせが行われたが、徴兵警官は2年間勤務の後、除隊してしまうために質を維持することができなかった。当時は志願警官(職業警官)の数よりも、はるかに徴兵警官が多かった。

1936年から1945年にかけて、アドゥン・アドゥンデートチャラットが警察局長になると、この状況に対処するために、人員、予算ともに大いに増強された[3]。懸案であった徴兵警官は大幅に志願警官に置き換えが行われ、予算も拡充された[4]。警察士官学校は、1933年12月に実施された軍務省改組にともない閉鎖。優秀な人材を確保するべく、陸軍戦略教育局の下で陸軍士官学校に統合された。しかし、陸軍将校になるべく入学してきた候補生にとって、警察将校は劣等として格下にみなされることが多かった[5]

これらの警察改革は第二次世界大戦の中で歪みを大きくしていった。1940年後半にタイが失地回復を求め、仏領インドシナで戦端を開くと、政府は緊急に将校人員の拡大を図った。そのため、候補生を繰り上げ卒業させ、訓練不十分な警察将校を国内治安維持の公務に送り出すことになったのである[6]。さらに戦中戦後の物資欠乏、物価騰貴に起因する生活苦に加え、満足な経費を支給されていなかった。そのため、警察官、特に下士官や巡査の規律は乱れた[7]

1946年に、予算削減により陸軍士官学校から警察課程が切り離され、警察将校育成を警察局の管轄に戻すことになったが、警察局においても十分な予算を確保できず、十分な教育、施設を提供することができなかった。戦後から、1954年に警察士官学校がナコーンパトムに自前の校舎を確保するまで、校舎を首都警察巡査学校に間借りしていた。このような戦後の教育制度、学校設備の整わない状況で教育された警察将校たちの世代は、『馬小屋世代』(ルン・ゴック・マー)と呼ばれている[8]。以上のことから、戦後長らく、警察組織に良質な幹部候補生を輩出できず、陸軍のような幹部層を形成することができなかった。また下士官、巡査の質も改善されることはなかった。
共産主義封じ込めと警察組織の拡充

1949年中華人民共和国が成立すると、東南アジアへの共産化を懸念するアメリカ合衆国西側諸国は、タイを反共主義の前線として位置づけた。その中で、政治的な関与が薄く、王室とのつながりが強かったタイ警察は当時、反共の重要な準軍事組織と目されていた[9]1951年、警察長官に就任したパオ・シーヤーノン警察大将は、アメリカ中央情報局と秘密裏に協定を結び、兵器、資金、軍事訓練を受け、アメリカとの結びつきを強めていった。国境警備警察と航空支援部隊(PARU)はアメリカの支援を受けて創設された。パオ将軍の下で国境警備警察は強力な反共準軍事組織として成長すると同時に、北タイの黄金の三角地帯などのケシ農園の防衛、交易などの麻薬産業を行い、さらにタイ国内に駐留し、麻薬産業を担っていた中国国民党軍などと癒着してゆくことになった[10]。50年代、60年代を通じて、反共を名目したタイ警察への支援はCIAやUSAIDを通じて一貫して行われた。1965年には、地方警察への巨額の資金提供があり、さらに、1967年-72年の間に警察・軍を含め、3,000名がアメリカ合衆国国内で軍事訓練を受けた[11]
現代のタイ警察

1998年、再び組織変革があり、警察局は首相の直下の機関として、現在のタイ王国国家警察庁となった。
本庁所在地

バンコク パトゥムワン区 ラーマ1世通り (???????????? 1 ?????????? ?????????????)
組織


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