タイの国章
他の種類
王室と取引のある信頼できる企業のうち、希望する企業に対して贈られるガルダ像
詳細
使用者ラーマ10世 (ワチラーロンコーン)
採用1911年
盾ガルダ
タイ王国の国章(タイおうこくのこくしょう)は仏教およびヒンドゥー教の神話に登場する神鳥・ガルダ(クルット)をモチーフとしている。アユタヤ王朝以来のタイのシンボルであり、正式に国章となったのは1911年のことであった。
翼を広げたガルダは王室および政府の象徴として用いられ、憲法や官報など政府の発する文書や書簡にはガルダの絵が描かれている。この姿のガルダは「Krut Pha」、ヴィシュヌのヴァーハナ(神の乗り物)となったガルダと呼ばれている。
ガルダはインドネシアの国章およびモンゴル国の首都ウランバートルの紋章としても用いられている。タイの国章のガルダとインドネシアの国章にあるガルーダとの違いは、紋章学に基づく盾(エスカッシャン)などを用いていないことにある。
国章制定の歴史タイの国王旗
アユタヤ王朝では王は複数の印章(???, tra)を内政、外交、軍事、宮廷などの目的で使っていた。その使い分けは法令で厳密に定められており印章を専用に扱う官僚も存在した。これらの印章は王の権威の象徴となっていったが、ビルマによるアユタヤ陥落と略奪破壊で失われた。その後のチャクリー王朝でも印章の使用が継続された。シヴァ神をあらわす Maha Ongkan (?????????)、ヴィシュヌ神をあらわす Khrut Phah (?????????)、ブラフマー神をあらわす Hong Phiman (????????)、インドラ神をあらわす Airaphot (??????) という4つの王の印章(????????????, Phra Rajalancakorn)が王の発する様々な文書に用いられた。これらの印章は、1873年の国章制定後も完全に廃止されることなく引き続き用いられた。
Maha Ongkan。七重の傘に挟まれた宮殿の中にオームのシンボルがある。シヴァ神を象徴する
Khrut Phah。神鳥ガルダがヴィシュヌ神を載せ、蛇神ナーガを退治している場面。このガルダが後にタイのシンボルとしても用いられる
Hong Phiman。ブラフマー神の乗り物である神鳥ハンサの背に宮殿が乗っている
Airaphot。インドラ神の乗り物である神象アイラーヴァタの背に宮殿が乗っている
1873年、即位から間もないシャム王国国王ラーマ5世(チュラチョームクラオ王、あるいはチュラーロンコーン大王)は近代化の一環として西洋の紋章学に基づく国章を制定した(後述)。しかし20年後の1893年、ラーマ5世は、この紋章が西洋化されすぎておりアユタヤ王朝以来の王権の象徴であったガルダの姿がないとして異母兄弟のナリッサラーヌワッティウォン親王(ナリット親王)に対し新たなエンブレムを作るよう命じた。
当初、ナリット親王は円の中にガルダがヴィシュヌ神を載せ、蛇神ナーガを退治している姿を描いた。このエンブレムは、ラーマ5世がナリット親王に対しヴィシュヌとナーガを除くように指示したため短期間しか使われなかった。結局、円の中にガルダだけを描いたエンブレムがラーマ5世の治世に王の印章として、象徴として用いられたが、タイ国家の国章としては西洋式の国章が依然として有効であった。
ラーマ5世が崩御した後、新たな王となったラーマ6世(モンクットクラオ王)は1910年、西洋式の国章を廃止してガルダのみを自身のエンブレムとすることを決意し、新たなエンブレム作りを命じた。これはラーマ5世時代のエンブレムに基づくものだったが外周に円を描いてその中に王の名が書かれており、新たな王が即位するたびに外周の円にある王の名も書き改めることになっていた。国王旗にもガルダがあしらわれることになった。1911年の法令では、このガルダのエンブレムがタイ国王の文書に押印される印章と定められ、以後、タイ王国政府にとってもこのエンブレムが様々な機会に用いられる正式な象徴となった。
ラーマ7世(ポッククラオ王)の1935年の退位後に即位したラーマ8世(アーナンタ・マヒドン王)はまだ若くスイス留学中であり戴冠が行われなかったため、新たなエンブレムも作られないままであり結局ラーマ5世のエンブレムがそのまま代わりに用いられることになった。