タイにおける政変一覧
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これはタイにおける、超法的な措置を伴う政変(革命クーデター反乱など)の一覧である。なお、未遂で発覚したものを含む。
立憲革命前

アユタヤ王朝以前についてはラーンナー王朝などのアユタヤの覇権下にない地方政権が乱立していたことや、地域をアユタヤのみに限っても記録されているだけで数限りなくあり、史料によっても年代が違ったりと煩雑になるため避ける。

年首謀者名称(ある場合)主張・要求結果
1782年ラーマ1世国王の精神錯乱ラーマ1世によるタークシン王の王位簒奪。トンブリー王の処刑。チャクリー王朝の成立
1874年12月28日ウィチャイチャーン副王ワンナー事件王位簒奪が目的といわれる。この事件については謎が多いが、ラーマ5世の時代、王宮の火事に乗じて副王宮から、武装したウィチャイチャーン副王の私兵が宮殿に侵入しようとしたが失敗。翌日、ラーマ5世は私兵で副王宮を包囲。ウィチャイチャーン副王の私兵を解散させた。チャクリー改革を促し、ブンナーク家が没落した。
1912年3月1日陸軍青年将校ラッタナコーシン歴130年の反乱(未遂)民主化未遂。首謀者達100余名が逮捕された。革命の後、立憲君主制か共和制を導入するかを首謀者たちが酔っぱらいながら議論していたところを、察知され、ピッサヌローク親王に知れたことから発覚した。

立憲革命以降

年首謀者名称(ある場合)主張・要求結果
1932年6月24日人民党立憲革命絶対君主制への不満立憲君主制に移行。
1933年4月1日ラーマ7世(プラチャーティポック)、プラヤー・マノーパコーン急進派追放政変国会の混乱プリーディーの発表した政策『経済計画大綱』が共産主義的であるとして、国会が混乱。国会閉鎖。憲法停止。共産主義の非合法化。
1933年6月20日革命団(プラヤー・パホンピブーン)王政復古阻止クーデター政府の無能。マノーパコーン政権崩壊。初の軍事政権
1933年10月11日ボーウォーラデート親王ボーウォーラデート親王の反乱政府が民主的でない。内乱に発展するが反乱側は鎮圧された。首謀者は国外逃亡した。
1935年8月3日歩兵連隊の下士官達下士官反乱(未遂)関係者15名ら逮捕。
1939年1月29日ピブーンプラヤー・ソンスラデート弾圧事件王族、政治家ら51名に、1938年に起こったピブーン暗殺未遂事件の容疑をかけ処刑。お座成りな裁判により18名が死刑、25名が終身刑。プラヤー・ソンスラデートは海外逃亡した。ピブーンによる粛清
1947年11月8日将校団(ピン中将、カート中将、サリット中将ら)将校団クーデター政府の経済政策への不満。タワン政権崩壊。クワン政権樹立。仏歴2490年暫定憲法制定。
1948年4月6日将校団(ピブーン、カート中将、サリット中将ら)第二次将校団クーデタークワン内閣の総辞職。クワン政権崩壊。ピブーン返り咲き。
1951年6月29日アーノン海軍大佐マンハッタン反乱声明無し。海軍ラジオで新政権樹立を発表。ピブーンを暗殺しようとして失敗した。関係者が逮捕され、海軍の規模は縮小され、以降クーデターの主体となることはなくなる。
1951年11月29日変革団(軍部)ラジオ・クーデター共産主義の一掃仏歴2475年憲法を仏歴2494年憲法として復活。仏歴2490年憲法廃止。
1957年9月17日変革団(サリット元帥)ピブーン追放クーデター汚職。共産主義国家との密通。ピブーン失脚、ポット内閣成立。
1958年10月20日革命団(サリット元帥)サリット革命内政の乱れ。共産主義台頭の脅威。憲法停止。サリット政権の成立。仏歴2502年統治憲章の成立(翌年)。
1971年11月17日革命団(タノーム元帥)タノームの自己クーデター共産主義の脅威。憲法停止。仏歴2515年タイ王国統治憲章の成立(翌年)。
1973年10月14日学生学生決起、学生革命、学生クーデター(血の日曜日事件、大いなる悲しみの日)軍事独裁政権への抗議、早期の民主憲法制定、経済状態の悪化。ベトナム戦争特需景気が衰退して低迷する国内経済の不満は軍事政権に集中、同時に輸入品不買運動を展開していたタンマサート大学ら学生らは加えて民主化を求めてデモを展開、徐々に他の大学や学校にバンコク市民を引込み運動は大勢の指示を得て政権から民主化選挙の確約を取り成功裡のうち解散した。しかし勢いのなか残留した少数の過激集団があり、そのタンマサート大学生でセークサーン(セクサン)率いる武装職業訓練校生らの集団に「政府が鎮圧に来る」というデマへ激高から行った10月14日午前の抗議活動でチットラダー宮殿へ行進中のラーチャダムヌーン通りで政府の警官隊と衝突、さらに暴動に発展し兵隊まで導入され死者を出す惨事になった。前日には国王の学生ら民主化運動勢力の支持が報道され、武力弾圧のなか陸軍最高司令官の鎮圧への不参加表明などからタノーム軍事政権は崩壊しタノーム首相ら幹部は国外に逃亡した。その後任に国王任命でタンマサート大学の学長のサンヤーによる内閣が成立。翌年の仏歴2517年憲法の制定しその後総選挙によって民主的な文民内閣が登場した。


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