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ゾグ1世
Zogu I
アルバニア国王
ゾグ1世
在位1928年9月1日 ? 1939年4月7日
全名Ahmet Muhtar Zogolli
アフメト・ムフタル・ゾゴリ
出生 (1895-10-08) 1895年10月8日
オスマン帝国、イシュコドラ州ブレル、ブルガジェト城
死去 (1961-04-09) 1961年4月9日(65歳没)
フランス、パリ近郊シュレンヌ
埋葬 フランス、パリ、ティエ墓地
配偶者アポニー・ゲーラルディネ
子女レカ
家名ゾグ家
父親ジェマル・パシャ・ゾグ
母親サディエ・トプタニ
宗教イスラム教スンナ派
サイン
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ゾグ1世(アルバニア語: Zogu I、1895年10月8日 - 1961年4月9日)は、アルバニア共和国の大統領(1925年 - 1928年)、後にアルバニア王国の国王(1928年 - 1939年)。 「ゾグ」はアルバニア語で「鳥」を意味する。ゾグ家はオスマン帝国のマティ総督を世襲で務めた家系であり、アフメト・ゾグはマティ族の族長で、地主層に属する家柄の出身であった。1917年 1920年に成立したスレイマン・デルヴィナ 蜂起は成功し、6月にファン・ノリは首相に就任した。ゾグは国外に逃亡し、逃亡先のベオグラードでピョートル・ヴラーンゲリ率いる白軍などとも接触しつつ、帰国の機会を窺っていた。12月になるとノリ政権のソビエト連邦への接近を警戒したユーゴスラビアの援助もあって、ゾグは軍を率いて帰国し、首都ティラナを攻略し、ノリ首相を亡命に至らしめた。こうして政権を再び奪取すると、1925年には共和国宣言を行い、大統領に就任した。 1928年9月1日、憲法を改正して王位に就いた。この時にアフメトというトルコ語由来のムスリムの男性名を名乗るのを止め、ゾグだけを名前とした。即位した後は権威主義体制を敷く一方で、民法や刑法の導入などの近代化政策を推し進めた。当時のアルバニアは氏族社会であり、また北部と南部では言語や社会環境が大きく異なっていたため、ゾグは氏族の武装解除やナショナリズムを唱える政策を通じて均質なアルバニア国民の形成を図った。対外的には、大統領時代にはイタリアに接近する政策を採ったが、国王に即位してからはイタリアと距離を置くようになり、両国関係が緊張することとなった。ゾグ1世の墓(ティエ墓地) アフメト・ゾグ 1939年4月、ファシスト党政権下のイタリアがアルバニア侵攻を始めると、ゾグ1世はギリシャに亡命した。アルバニアの王位はイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が兼ねることとなり、アルバニアには傀儡政権が置かれた。 一方ゾグはギリシャからエジプトに逃れ、第二次世界大戦中は復位の為に連合国や国内支持勢力と接触を保っていたが、戦後にエンヴェル・ホッジャを指導者とするアルバニア人民共和国が成立すると、帰国さえ不可能となった。その後イギリス、フランスで亡命生活を送った後、1961年4月9日にパリ近郊で死去した。ティエの墓地に埋葬されている。
生涯
政権獲得
国王即位
亡命とその後
Ahmet Zogu
アフメト・ゾグ(1922年)
アルバニア共和国
大統領
任期1925年1月31日 – 1928年9月1日
アルバニア公国
第10代 首相
任期1922年12月26日 – 1924年2月25日
アルバニア公国
第15代 首相
任期1925年1月6日 – 1928年9月1日
出生 (1895-10-08) 1895年10月8日
オスマン帝国、イシュコドラ州ブレル、ブルガジェト城
死去 (1961-04-09) 1961年4月9日(65歳没)
フランス、パリ近郊シュレンヌ