ソ連派_(朝鮮)
[Wikipedia|▼Menu]

ソ連派
各種表記
ハングル:???
漢字:蘇聯派
発音:ソリョンパ
日本語読み:それんは
MR式
2000年式:Sory?np'a
Soryeonpa
テンプレートを表示

ソ連派(ソれんは)は、第二次世界大戦後の朝鮮半島の北半部(北緯38度線以北)の体制(のちに朝鮮民主主義人民共和国となる)に参加したグループの通称。ソビエト社会主義共和国連邦領内出身の朝鮮系ソ連国民であり、ソ連軍人として朝鮮半島に進駐し、北朝鮮の統治機構に加わった。のちに北朝鮮内部の権力抗争に敗れて粛清される。
概要

19世紀、咸鏡道に隣接する清国間島ロシア沿海州朝鮮人が移住するようになった。沿海州に住んでいた朝鮮人は、ソ連時代にスターリンによって中央アジアに強制移住させられる(高麗人)。彼らの中には共産党に入党したりソ連軍赤軍)に加わった者もいた。第二次世界大戦終結とともに、その一部はソ連軍の朝鮮進駐に従って祖先の地に戻り、経済再建や朝鮮人民軍の創設などソ連型社会主義体制建設に参画することとなった。これがソ連派である。

ソ連系朝鮮人の入北は第1陣から第5陣に分けることができ、第1陣は40人であった[1]鄭律(ソ連海軍軍人)、崔鐘学(ソ連軍大尉)、チェ・ワレンチン(ソ連軍上尉)などソ連対日参戦に参加した人と朴昌玉韓一武、李学龍、金元吉、金ソンフンなど朝鮮に派遣され諜報活動中に終戦を迎えた人々、1945年8月29日にソ連軍第25軍の政治部と共に平壌に入ったミハイル姜少佐、呉基燦大尉などのソ連軍人や田東赫(詩人)、趙基天(朝鮮語版)、林河(劇作家)、金世一(小説家)、金元鳳(朝鮮義勇隊金元鳳とは別人)、金成和、朴基鎬、李奉吉など民間人28人が含まれる[1]

1945年9月、第88独立旅団に勤務していた李東華(少佐)、朴吉南(大尉)、李青松(特務曹長)、全学俊(曹長)、崔興国(軍曹)兪成哲(上等兵)、李宗仁(上等兵)、鄭学俊(上等兵)、金奉律、文日がソ連軍艦プガチョフ号に乗り、元山に入港[2]

第2陣は1945年10月中旬、平壌に到着した[1]。師範大学やロシア語学科などを卒業した朴永彬、金日、朴吉龍、朴泰燮、許学哲、千律、朴椿、金丹、千義?、オ・ピョートル、朴泰俊など53人であった[1]

第3陣は1945年12月初旬に平壌に到着し、許哥誼朴義?方学世、金在旭、姜尚昊、李春白、金沢泳、奇石福、金承化、金烈、許彬、金東哲、金燦、金永洙、朴英、鄭国禄、高熙萬、朴昌植、安東洙、李東建などで、後に党や政府の要職を占めた大物が多かった[1]

第4陣は1946年夏に平壌に到着し、南日、張益煥、金ドンハク、朴ウォンム、金永三、金学仁、朴一、金インノケンチー、千治億、李文日、鄭哲友、チャン・チュイク、など技術者や幹部36人であった[1]

第5陣は1946年9月に到着し、朴秉律、チュ・グァンム(ロシア語版)、オ・ギフン、朴レオニード、金七星(ロシア語版)、チャン・ドンヤ、カン・ソフィア、シム・スチョル、金ヨンス、朴一英、金光、許翼など主にロシア語教員で20人であった[1]

ソ連系朝鮮人は指導的なポストに任命されたが、彼らのほとんどは指揮系統の2番手であった[3]

多くのソ連系朝鮮人は刑事警察、諜報機関、防諜活動の任務を統合した内務省の役人であり、北朝鮮警察と公安機関の設立への貢献は大きかった[4]。北朝鮮公安当局は1947年に北朝鮮に来た方学世が指揮しており、ソ連人顧問のG・M・バラサノフの指導の下、方は実質的にゼロから抑圧的治安機構を築いた[4]。海外諜報部は、1950年半ばに、元ソ連の教員で戦時中の諜報員であった金チュンサン(A・N・ニガイ)が率いていた[4]。1955年から1957年の内務省のトップは姜尚昊であった[4]。1957年、新しく統合された閣僚会議の情報機関が設立された時、セミヨン・ナム(南昌燮)が組織の次長となった。南昌燮は元ソ連国家保安委員会の職員で、1946年から北朝鮮に派遣され、G・サラノフの指導下で勤務していた[4]

ソ連軍に所属していた朝鮮出自の高官の多くは大粛清で死亡していたため、北朝鮮の軍事力の確立に果たした役割はあまり大きくは無かった[5]。主に政治教化や技術関連職、行政職に従事した[5]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:24 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef