ソ朝友好協力相互援助条約
署名1961年7月6日
署名場所モスクワ
締約国ソビエト社会主義共和国連邦と朝鮮民主主義人民共和国
言語ロシア語、朝鮮語
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ソ朝友好協力相互援助条約(そちょうゆうこうきょうりょくそうごえんじょじょうやく、ロシア語: Договор о дружбе, сотрудничестве и взаимной помощи между Союзом Советских Социалистических Республик и Корейской Народно-Демократической Республикой, 朝鮮語: ??? ???? ??? ??? ?? ???? ?? ????? ??, ?? ? ??、 ??? ?? ??)は、1961年7月6日にモスクワにおいて、ソビエト社会主義共和国連邦と朝鮮民主主義人民共和国との間で結ばれた条約。
条約はソ連からはニキータ・フルシチョフ首相(当時)、北朝鮮からは金日成首相(当時)が出席して調印された。 朝鮮戦争の休戦後に北朝鮮はますます独自路線を歩み、金日成に対する個人崇拝を強化していた。さらに1956年2月にソ連のニキータ・フルシチョフが「スターリン批判」を展開したが、金日成はこれを無視した。さらに、金日成率いる「満州派」に批判的な「南労党系」、さらに8月宗派事件で結託した「ソ連派」と「延安派」を粛清したことで、ソ朝関係は悪化した。 しかし、1961年5月16日に大韓民国の朴正煕が軍事クーデターを起こし、反共軍事政権を樹立してから、北朝鮮は韓国がアメリカ合衆国と組んで北を攻撃することを危惧し、ソ連と中華人民共和国に同盟を求めた[1]。 朝鮮戦争当時のソ連のヨシフ・スターリンは、アメリカとの全面衝突を避けるために撤収したソビエト連邦軍を朝鮮半島に戻すことに消極的で金日成の参戦要請を拒否したものの、中ソ友好同盟相互援助条約が存在したために、中華人民共和国を介する形で北朝鮮を間接的に支援していた[2]。 この条約の締結によって、ソ連は北朝鮮を直接軍事的に支援することが初めて可能になり、さらに5日後には中朝友好協力相互援助条約も結ばれて、中華人民共和国もかつてのような「義勇軍」名目ではなく、中国共産党直結の中国人民解放軍によって北朝鮮を公然と支援できるようになり、その結果3カ国でさらに緊密な同盟になると考えられた。しかし同年10月から中ソ対立が本格化することでこの三国が連携することはなかった。 その後の冷戦下でこの条約は続いたが、1991年のソビエト連邦の崩壊や、冷戦の終結などの国際情勢の変化を受けたロシアと北朝鮮の関係の変化により、ソ朝友好協力相互援助条約は1996年に破棄・失効した[3]。 この条約の日本語訳は以下の通りである。(正文はロシア語及び朝鮮語) 第一条 両締約国は、両国が今後とも極東及び全世界の平和及び安全の保障を目的とするすべての国際的行動に参加し、これらの高い課題の実現に貢献するであろうと声明する。 いずれか一方の締約国がいずれかの一国又は同盟国家群から武力攻撃を受け、戦争状態に入つたときは、他方の締約国は、直ちにその有するすべての手段をもつて軍事的及び他の援助を供与するものとする。 第二条 いずれの一方の締約国も、他方の締約国を目標とするいかなる同盟をも締結せず、いかなる連合及び行動又は措置にも参加しないことを約束する。 第三条 両締約国は、平和の強化及び全般的安全を促進する熱意を指針として、両国の利益に触れるすべての重要な国際問題について相互に協議するものとする。 第四条 両締約国は、平等の原則並びに国家主権、領土保全の相互尊重及び国内事項への相互不干渉の諸原則に従い、友好及び協力の精神において、ソヴィエト社会主義共和国連邦と朝鮮民主主義人民共和国との間の経済的及び文化的関係を発展強化させ、あらゆる可能な援助を相互に供与し、かつ、経済及び文化の分野において必要な協力を実現することを約束する。 第五条 両締約国は、朝鮮の統合は平和的及び民主的基礎の上に行なわれるべきであり、このような解決は朝鮮人民の利益及び極東の平和維持に答えるものと考える。 第六条 この条約は、平壌市において行なわれる批准書交換の日に効力を生ずる。 この条約は十年間効力を存続する。いずれか一方の締約国が、この期間の満了の一年前にこの条約の廃棄の希望を表明しない場合には、この条約は、次の五年間効力を存続し、この規定に従い延長されるものとする。
経緯
条文
脚注^ 『北朝鮮と軍事同盟50年を祝う中国を侮るな』MSN産経ニュース2011年7月18日
^ 李榮薫『大韓民国の物語』 p. 291 文藝春秋、2009年2月 ISBN 4163703101
^ 八島有佑