Saunders Mac Lane
ソーンダース・マックレーン
ソーンダース・マックレーン(1972)
生誕 (1909-08-04) 1909年8月4日
アメリカ合衆国 コネチカット州ノーウィッチ
死没
2005年4月14日(2005-04-14)(95歳)[1]
アメリカ合衆国 カルフォルニア州サンフランシスコ
国籍 アメリカ合衆国
研究分野数学(数理論理学
代数的数論
代数的トポロジー)
研究機関ハーバード大学
コーネル大学
シカゴ大学
コロンビア大学
出身校イェール大学
シカゴ大学
ゲッチンゲン大学
博士課程
指導教員ヘルマン・ワイル
パウル・ベルナイス
博士課程
指導学生
スティーブ・アウディ
ソーンダース・マックレーン(Saunders Mac Lane[※ 1], 1909年8月4日 - 2005年4月14日)は、アメリカの数学者。サミュエル・アイレンバーグとともに圏論(category theory)を創設したことで知られる。 コネチカット州ノーウィッチ生まれ。ゲッティンゲン大学にてパウル・ベルナイスに師事し、1934年に博士号を取得。1947年シカゴ大学教授に就任し、1982年同大学名誉教授。また、アメリカ数学協会
略歴
サミュエル・アイレンバーグと共に圏論を創設したことで知られる。自ら著した“Categories for the Working Mathematician[4]”(日本語訳タイトル『圏論の基礎』)は圏論に関する基礎的なテキストとなっている。 マックレーンは、彼の家族が住んでいたタフトヴィルの近く、コネチカット州ノーウィッチで生まれた[5]。 彼は「レスリー・ソーンダース・マックレーン(Leslie Saunders MacLane)」と名付けられたが、両親のドナルド・マックレーン(Donald MacLane)とウィニフレッド・ソーンダース(Winifred Saunders)が「レスリー(Leslie)」という名前が途中で嫌いになったので、「レスリー」という名前は落とされて使われなくなった。また、彼の最初の妻が名字にスペースなしでタイプするのが難しい感じていたので、彼は自身の名字にスペースを挿入し始めた[6]。 彼は3人兄弟の長男で、彼の兄弟の一人のジェラルド・マックレーン(Gerald MacLane)は、ライス大学とパデュー大学で数学教授となっている。もう一人妹がいたが、赤ん坊のころに亡くなった。彼の父と祖父はどちらも大臣で、彼の祖父は長老派教会だったが、進化論を信じたために教会から追い出され、彼の父は会衆派教会であった。彼の母親であるウィニフレッドはマウントホリオーク大学で学び、英語、ラテン語、数学を教えていた[5]。 高校では、マックレーンの好きな科目は化学だった。高校生の時、父親が亡くなり、祖父の庇護の元で生活するようになった。弁護士である彼の半叔父は、彼の親戚の多くが教育を受けていたイェール大学に彼を入れることを決め、1926年から始まる彼の進路に資金を出した。新入生のころ、彼は好きだった化学に幻滅することとなる。彼の数学の指導者であるレスター・S・ヒル(Lester S. Hill)は、マックレーンが優勝することになった地元の数学のコンテストのために彼を指導し、マックレーンの将来の仕事の方向性を決めることとなった。彼は数学と物理学を二重専攻として学ぶことに邁進し、ジェシー・ビームス(Jesse Veams)、アーネスト・ウィリアム・ブラウン、アーネスト・ローレンス、F・S・C・ノースロップ(F. S. C. Northrop)、そしてオイステイン・オア
生い立ちと教育
1929年、ニュージャージー州モントクレアで開催されたイェール大学のサッカーサポーターのパーティーで、(イェール大学でこれまでに記録された最高の成績評定者として賞が授与されていた)マックレーンは、シカゴ大学の新学長であるロバート・メイナード・ハッチンス(Robert Maynard Hutchins)と会った。学長はマックレーンに大学院での研究のためにシカゴ行くことを勧め、その後すぐに彼に奨学金のプログラムを提示した。マックレーンは実際にそのプログラムに応募することをためらったが、応募するとすぐに認められた。シカゴで彼が研究したテーマには、 E・H・ムーアの集合論、レオナード・ユージーン・ディクソンの数論、ギルバート・エイムズ・ブリス(Gilbert Ames Bliss)の変分法、モーティマー・J・アドラーの論理学が含まれていた[5]。
1931年、シカゴで修士号を取得し、じっとしていられなくなった彼は、国際教育研究所からフェローシップを取得し、ナチスの台頭により衰退する前のゲッチンゲン大学で勉強した最後のアメリカ人の1人となった。彼の最大の影響は、ポール・ベルナイスとヘルマン・ワイルから受けることとなった。1934年に彼が博士号を取得するまでの間に、ベルナイスはユダヤ人であったことから退去を余儀なくされており、ワイルが彼の主な審査官となっていた。ゲッチンゲンでは、マックレーンはグスタフ・ヘルグロッツとエミー・ネーターにも師事していた。学位を取得してすぐ、シカゴ時代以来のつきあいがあるドロシー・ジョーンズ(Dorothy Jones)と結婚し、すぐに米国に戻った[5][7][8]。