ソールズベリー・ステーキ
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ソールズベリー・ステーキ

ソールズベリー・ステーキ (Salisbury steak) は、米国発祥の肉料理である。牛挽肉にタマネギなどを混ぜて成形したものを焼いたもので、グレイビーソースまたはブラウンソースを添えて供する。ハンバーグステーキとよく似ているが、材料がいくぶん異なっている。
歴史 モンゴルタルタルステーキ ハンバーグステーキは、ドイツでは遅くとも17世紀から「フリカデッレ」という名前で食されている 「ハンバーガー・ルントシュテュック」は早くも1869年には一般的な料理で、現在のハンバーガーの元になったと考えられている

米国でソールズベリー・ステーキが考案される前から、ヨーロッパでもよく似た料理が広く食されていた。たとえば4世紀頃の古代ローマのレシピ集アピシウスには、isicia omentata という料理が詳述されている。isicia omentata は挽いたり刻んだりした牛肉に松の実、ブラックペッパーとグリーンペッパー、白ワインを加えたパテを焼いて供するもので、ハンバーグの最古の例と考えられている[1]。12世紀のモンゴル系遊牧民は、馬乳酒と馬肉またはラクダ肉で作る料理を西方に伝えた[2]チンギス・カン率いるモンゴル軍は、現在のロシアやウクライナカザフスタンにまで至る広大な版図をもつジョチ・ウルスを築き上げた[3]。モンゴル軍は騎兵を主とし、時に食事をする間を惜しんで行軍することもあったため、馬上で食べることも多かった。モンゴル兵はの下に薄く切った肉を何枚か挟んでおき、行軍による動きや圧力で挽きつぶし、熱や摩擦で調理された状態になるよう工夫していた。モンゴル帝国の版図には、こうして作られた挽肉を用いるレシピが広く伝わったのである[4]。モンゴル軍は、食料となる馬や羊、牛の群れを軍勢に伴っており、マルコ・ポーロはモンゴル兵の食糧事情について、1頭の馬は兵士100人の1日分の糧食にあたると記している。

チンギス・カンの孫クビライの軍勢はルーシにまで及んだが、その際にミンチにした馬肉がもたらされた。ルーシ人はモンゴルなど東方の遊牧民をタタールと呼んでいたことから、馬挽肉を用いた料理をタルタルステーキと呼ぶようになった[2]。現在のドイツにあたる地域でも挽肉料理が取り入れられ、ケッパーやタマネギ、さらにはキャビアを加えたものが通りで売られるなど、独自の発展を遂げた[5] 。ハンブルクソーセージは1763年にハナー・グラスが著した "Art of Cookery, Made Plain and Easy" という料理書に現れるのが初出で、挽肉にナツメグクローブブラックペッパー、ニンニクなどのさまざまなスパイスと塩を加えて作り、トーストを添えるとされている。 それ以外にも、ミートローフ[6]セルビアのプルジェスカヴィカ、中東のキョフテのほか、ミートボールなど各国に挽肉で作る料理が存在する。
ハンブルクとその港 1890年代のハンブルク

中世料理において挽肉は珍味の部類であり、赤身肉は上流階級の口にしか入らなかった[7]。保存食としてのソーセージづくりでは挽肉を使うことはなかったためか、中世には肉屋が挽肉を作ることはほとんどなく、当時の料理書にも挽肉は出てこない。時代が進んで17世紀になると、ロシア船がハンブルク港にタルタルステーキのレシピを持ち込んだ[8]。当時ハンブルク港はロシア人が多く住んでいたため「ロシアの港」と呼ばれるほどであった。13世紀から17世紀にかけて、ハンブルクはハンザ同盟に属する自由都市としてヨーロッパ随一の港湾都市となっていたが、大西洋横断航海の拠点ともなることから商業的な重要性はますます高まっていた。ヨーロッパ諸国がアメリカ大陸に進出するようになると、ハンブルクへの移民が旧大陸のレシピを新大陸に伝える架け橋の役割を担うようになった[9]

19世紀前半に新世界を目指したヨーロッパ移民のほとんどは、ハンブルクから旅立っていった。1847年に創業したハンブルク・アメリカ小包輸送株式 (HAPAG、現在も存在する海運会社ハパックロイドの前身) は、ほぼ1世紀にわたって大西洋横断航路を担っていた[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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