ソンツェン・ガンポ
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ソンツェン・ガンポ
チベット帝国ツェンポ

在位629-650/649

全名ティ・ソンツェン
チベット文字
ワイリーSrong-btsan sGam-po
蔵文?音Songzain Gambo
THLSongtsen Gampo
漢字松贊干布
出生617

死去650/649
チベット
父親ナムリ・ソンツェン(英語版)
母親?
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ソンツェン・ガンポ(チベット語:.mw-parser-output .uchen{font-family:"Jomolhari","Uchen","Noto Serif Tibetan Medium","Noto Serif Tibetan","BabelStone Tibetan Slim","Yagpo Tibetan Uni","Noto Sans Tibetan","Microsoft Himalaya","Kailash","DDC Uchen","TCRC Youtso Unicode","Tibetan Machine Uni","Qomolangma-Uchen Sarchen","Qomolangma-Uchen Sarchung","Qomolangma-Uchen Suring","Qomolangma-Uchen Sutung","Qomolangma-Title","Qomolangma-Subtitle","DDC Rinzin","Qomolangma-Woodblock","Qomolangma-Dunhuang"}.mw-parser-output .ume{font-family:"Qomolangma-Betsu","Qomolangma-Chuyig","Qomolangma-Drutsa","Qomolangma-Edict","Qomolangma-Tsumachu","Qomolangma-Tsuring","Qomolangma-Tsutong","TibetanSambhotaYigchung","TibetanTsugRing","TibetanYigchung"}????????????????、ワイリー方式: srong btsan sgam po、581年[1]? - 649年もしくは650年[2])は、古代チベットの王(在位593年 - 638年643年 - 649年もしくは650年)。チベット初の統一王国(吐蕃)を樹立し[3]、チベットに初めて仏教を導入した人物として知られる[4]。本名はティ・ソンツェン(?????????????、khri srong btsan)であり、ソンツェン・ガンポは後世の人間による尊称である[5]漢文史料では松賛干布、棄宗弄讃と表記される。

宰相のガル・トンツェン(ガル・トンツェンユルスン)の補佐を受けてチベット高原の大部分を支配下に置き、吐谷渾・パイラン(白蘭)・タングートなどの周辺の部族に勝利を収める。640年ごろまでに吐蕃は、北東はツァイダム地方、東は松州、西はラダック、南はヒマラヤ山脈に支配領域を広げた[5]

彼の事績は早い時代から伝説化され、転輪王にも擬せられた[6]。唐国は吐蕃に貢女と朝貢をした。唐王室より公主(皇族の女性)を貢女としてもらい、妾にして和平を結ぶこともあったが、以後積極的に唐国を征服する活動をした。
生涯

ラサ南東のヤルルン地方の部族長ナムリ・ソンツェン(ティ・ルンツェン)の子として生まれる。

13歳のときに父のナムリ・ソンツェンによって名目上の王に立てられたが、4年後に政敵によって父は毒殺される[7]。ナムリ・ソンツェンの死後、ヤルルンに従属していたシャンシュン族とスムパ族、ヤルルン王家の親族であるコンポ、ニャンポ、タクポが独立を図った[8]。ソンツェン・ガンポは苛烈な報復を行って支持を失い、608年カム地方の家臣団が「附国」を称して独自にに朝貢した[7]

609年に隋の煬帝の攻撃を受けた吐谷渾の王の伏允が黄河上流域に逃げ込むと、チベットの情勢に変化が起きる。宰相のニャンの説得により、長年吐谷渾の攻撃に晒されていた東方のスムパ族のパイラン氏が吐蕃に臣従し、吐蕃・パイラン・吐谷渾に囲まれた附国は再び吐蕃に従属した[9]

吐谷渾に対しては、620年以前に王女を嫁がせて接近し、彼らから政治・軍事制度を吸収した[10]。南のリッチャヴィ朝ネパールとは同盟を結び、平和が保たれる[11]

ソンツェン・ガンポは唐を攻撃し、征服活動を行った。唐を圧迫し、唐王室より公主(皇族の女性)を貢女として送ることを強要した[12]634年唐は拒否して、ソンツェン・ガンポは怒って25万の大軍に唐の首都の攻撃を命じた[13]。また、報復としてソンツェン・ガンポは吐谷渾を攻撃し、638年に唐の青海の松州まで征服した。吐蕃から攻撃を受けた唐は賠償金を支払った[13][14]。また、青海以外に雲南ビルマ北部、ネパールへも軍を派遣した[11]

638年、ソンツェン・ガンポの子のグンソン・グンツェン(中国語版、英語版)が吐蕃の王に即位する。唐は吐蕃の要求を受け入れ、640年(もしくは641年)にソンツェン・ガンポの妾として太宗の娘文成公主が貢女された。文成公主がチベット人の赭面[注釈 1]の習慣を嫌がった時には、国中にこれを中止する命令を発した[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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