ソマリア内戦
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ソマリア内戦

各勢力の支配地域を表した地図(随時更新)

     ソマリア連邦政府および同盟国     ソマリランド     アル・シャバブ     ISIL

1988年 - 継続中
場所ソマリア

衝突した勢力

ソマリア
アフリカ連合
支援:
アメリカ合衆国
トルコ
イタリア

ソマリランド
その他民族アル・シャバブ
アルカーイダ
ムジャヒディーン勢力
エリトリア
海賊

推定戦死者 300,000 ⇒[1] ? 400,000 ⇒[2]
(上三段目は、便宜上左から「暫定政府に近い勢力」「地方を支配する勢力」「イスラム原理主義勢力・その他」の意。但し、この三派に分かれて争っているという意味ではない。例えばソマリランドはプントランドと国境紛争を行っている。)


註:(*)は、既に消滅したとされる勢力。

ソマリアの地図

ソマリア内戦(ソマリアないせん、ソマリ語: Dagaalkii sokeeye ee Soomaaliya)は、1980年代から続いているソマリア内戦である。
前史[ソースを編集]
内戦前夜[ソースを編集]

1969年10月15日アブディラシッド・アリー・シェルマルケ第2代大統領が暗殺され、その数日後にクーデターモハメド・シアド・バーレ少将を指導者とする軍部が実権を握った。バーレはソマリ族が1つの国家のもとに集結すべきという大ソマリ主義を掲げてソマリ族の民族意識を煽った。この結果、1977年エチオピアオガデン地方に住むソマリ人大ソマリ主義に共感し、分離独立を求めてエチオピア政府に対し反乱を起こした。ソマリアはこれに対し軍事支援を行い、エチオピア軍と戦闘状態に陥った。結局キューバ及びソ連の支援を受けたエチオピアがソマリア軍を撃退し、ソマリアは大きな損害を受けた(オガデン戦争)。

この紛争がソマリアの窮乏化を加速させたにもかかわらず、バーレ大統領はソマリ社会主義革命党による一党独裁体制のもと、自分の属する南部のマレハン氏族のみを重用し、北部のイサックなど他の有力氏族を見捨てるような政治運営を行った。経済的にも財政破綻が顕著となり、比較的豊かなマレハンと貧しい他氏族の間で所得格差も格段に広がった。また北部産のバナナ動物を輸出して得た外貨を南部の開発のためだけに費やしたことは、後にソマリランド独立による国家の再分裂という事態まで引き起こしてしまう。こういった地域・氏族偏重主義のバーレ政権に反抗し、1980年代初めより反政府勢力が連合し始めていく。1982年から反政府武装闘争が表面化した。ソマリ国民運動の兵士(1980年代)
戦闘の推移[ソースを編集]
内戦勃発[ソースを編集]詳細は「w:Somali Rebellion」を参照軍閥・武装勢力の支配地域を表した地図(1990年代初頭)

1988年から反政府勢力は、諸都市を次々と勢力下に治め、1989年にはバーレ政権の支配域もモガディシュおよびベルベラなど地方都市の一部のみとなった。1991年1月に反政府勢力統一ソマリ会議(USC)が首都を制圧。バーレ大統領を追放し、暫定大統領にアリ・マフディ・ムハンマドが就任した。しかし、暫定政権発足に際し、各勢力の内部抗争が表面化し、6月には北部の旧英国領地域がソマリランド共和国として独立を宣言し、南北は再び分裂した。バーレ元大統領はナイジェリアラゴス亡命したが、1995年に死去した。

USC内でもモハメッド・ファッラ・アイディード将軍派がモハメド大統領派と対立。アイディード派の攻撃で首都を脱出したモハメド暫定大統領は、1991年12月国際連合に対しPKO部隊派遣を要請した。アイディード派はその後、武装勢力4派と政治組織ソマリア国民同盟(SNA)を結成、モハメド派も11派を傘下に入れ内戦が激化した。
国連展開[ソースを編集]詳細は「希望回復作戦」および「モガディシュの戦闘」を参照モガディシュ市内に展開する国連軍(1993年)

1992年12月、国連の国連安保理はPKO国連ソマリア活動のため、アメリカ軍を中心とする多国籍軍を派遣。続いて1993年5月平和強制と国家建設を任務とする第二次国際連合ソマリア活動が展開したが、アイディードは国連に対して宣戦布告、国連パキスタン軍を攻撃して24名の兵士を殺害した。これに対し、国連安保理はアイディード派幹部拘束を目的とした国際連合安全保障理事会決議837(英語版)を全会一致で可決して作戦を実施した。しかし、激しい応戦に遭い初期の目標は達成したものの、18名の米国兵士とマレーシア兵士1名を失い、73名の負傷者を出した(モガディシュの戦闘)。米国が撤退を決定すると、主軸を失った国連活動も全て撤収する事となった。1995年3月、中央政府も無く首都も二分されたままで最後のPKO部隊が撤退し、国際社会がソマリア内戦に介入することが非常に困難であることを証明した。
泥沼化[ソースを編集]詳細は「w:Consolidation of states within Somalia (1998?2006)」を参照

国連が撤収した1995年3月、アイディード派の財政を支えた実業家アリ・アトが離脱してSNAは分裂した。アリ・アト派は8月に武装勢力13派と協力関係を樹立し、アイディード派との戦闘に突入。1996年8月、砲弾による負傷が原因でアイディード将軍が死亡すると、三男のフセイン・アイディードが後継者となった。これを機に、10月には隣国ケニアが停戦協議を持ちかけたが失敗する。

1997年12月、モハメド派、アト派、アイディード派を含む武装28派がエジプトカイロで無条件停戦などを定めた和平協定に調印、統一政府の樹立に向けて会議を開催することで合意したものの、翌1998年3月に開かれた会議で、各派の意見対立により和平合意は延期。5月に、和平合意に向けた会議を開くことを約束したが開かれず、その後は和平協定そのものが事実上無効となってしまった。

同年7月、北西部の氏族の一部が自治国家プントランド共和国の樹立を宣言する。続いて隣国のエチオピアがエリトリア国境紛争を起こすが、その余波でエチオピアが支援するラハンウェイン抵抗軍(RRA)が1999年6月に南西部の要衝バイドアを制圧した。
ハッサン暫定政権[ソースを編集]

2000年5月、隣国ジブチで和平会議が開催され、実業家や氏族代表らが集まり暫定政府樹立に向けて討議を行った。


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