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ソマス・パレオロゴス
Θωμ?? Παλαιολ?γο?
モレアス専制公
ソマス・パレオロゴス、1471年頃
在位1428年 - 1460年
出生1409年
東ローマ帝国、コンスタンティノープル
死去1465年5月12日
教皇領、ローマ、サン・スピリト病院
埋葬ローマ、サン・ピエトロ大聖堂
配偶者カテリーナ・ザッカリア
子女エレニ
アンドレアス
マヌイル
ゾイ
家名パレオロゴス家
父親東ローマ皇帝マヌイル2世パレオロゴス
母親エレニ・パレオロギナ・ドラガシュ
サイン
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ソマス・パレオロゴス(ギリシャ語: Θωμ?? Παλαιολ?γο?, ラテン文字転写: Thomas Palaiologos、1409年 - 1465年5月12日)は、東ローマ帝国地方統治官、モレアス専制公(在位:1428年 - 1460年)。マヌイル2世パレオロゴス帝と皇妃エレニ・パレオロギナ・ドラガシュの第6子(末子)。古典式慣例表記ではトーマース・パライオロゴス(トマス、トーマスとも)。 1417年9月、僅か8歳でペロポニソス半島、モレアス専制公領に派遣され、以後、生涯の大半をこの地で送る事になる。まだ幼年であったのですぐに行政職には参加しなかったが、将来の共同統治を見据えての派遣であったと思われる。 1428年、兄セオドロス2世が隠退と修道院入りの意向を示したのを期に、長兄ヨハネス8世が弟コンスタンディノス専制公(後の皇帝コンスタンディノス11世パレオロゴス)を伴いペロポニソス半島に来訪、その決定に基づいてセオドロス2世、コンスタンディノス、ソマスの3人による共同統治体制が発足する。ソマスはまだ専制公称号を受け取っていなかったが統治の一員となり、カラヴリタに行政府を構えた。 統治者としてのソマスの最初の任務は、兄コンスタンディノスと協同の、半島に残存するアカイア公国勢力に対する征服戦争であった。1429年、コンスタンディノスは大司教領パトラ包囲戦に乗り出し、ソマスはその側面を支援する形でアカイア公チェントゥリオーネ2世アサン・ザッカリア(在位:1402年 - 1432年)の居城ハランドリツァを攻撃した。戦局は優位に進み、チェントゥリオーネ2世は娘カテリーナとソマスの結婚、及び娘の嫁資としてアカイア公領全土の譲渡に同意した。ソマスとカテリーナの結婚は1430年1月にミストラスで執り行われた。同年8月、ソマスは正式に専制公に叙せられた。 ソマスは共同統治者であるコンスタンディノスとは良好な協力関係を築き、コンスタンディノスの主導する政策を助けた。1444年に始まるコンスタンディノスの中央ギリシア遠征、1446年にオスマン帝国のムラト2世の侵攻に対する防衛戦に於いて、ソマスはコンスタンディノスを側面から支援した。 1448年6月にセオドロス2世、同年10月にヨハネス8世が死去すると、帝位継承を巡りコンスタンディノスと弟ディミトリオス
生涯
ディミトリオスとの共治は不安定な状況にあった。両者の個人的不仲、東西教会合同を推し親ラテン派のソマスと、合同に反対し親トルコ(オスマン朝)派のディミトリオスの間での宗教的・外交的な相違など、数多くの対立要素を抱えていた。1453年初頭のオスマン軍の半島侵攻に対して両者は協力してこれを撃退したものの、包囲された首都の救援は実現しなかった。
1453年5月29日のコンスタンティノポリス陥落後、ソマスとディミトリオスの対立は表面化し、領内の有力者やアルバニア人勢力の離反がこれに拍車をかける。加えて、ヴェネツィア共和国、オスマン朝がこうした状況に介入し、領内の混乱は一層深まった。
ソマスは状況の打開を西欧・カトリック勢力との連携と新たな十字軍に求める。彼はローマ教皇ピウス2世に使節を送り、マントヴァ教会会議に於ける新たな十字軍派遣の決定を訴えた。しかし教皇と枢機卿ヴィサリオン(ベッサリオン)の尽力にも拘わらず、実質的な支援は殆ど得られなかった。
1460年5月、スルタン・メフメト2世は大軍を率いて直接ペロポニソス半島全土の併合に乗り出した。ディミトリオスは降伏して拘束され、ソマスは抵抗を諦めてヴェネツィア船でケルキラ島に脱出した。彼の支配地域では各要塞・都市が各個に抵抗を続けていたがそれも同年夏まで殆どが終了し、ディミトリオスの支配地域共々、半島全土がオスマン朝の領土に加えられた。
ソマスは1462年、パトラの守護聖人である聖使徒アンドレアス(アンデレ)の頭蓋骨を携えてケルキラからイタリア・ローマに渡った。彼はその聖遺物を教皇ピウス2世に引き渡し、彼からローマ在住の保証と月額300ドゥカートの手当を受け取る事になった。彼はその地でカトリックに改宗し、その後もペロポニソス半島奪回の為の十字軍の結成を訴えたがそれも実らず、1465年5月12日にローマ市内、バチカン近くのサン・スピリト病院で死去した。弟ディミトリオスはオスマン帝国で軟禁状態となり、娘の死後修道院に入って1470年に死去した。 ソマスは歴史の中で無個性な人物として描き出されている。彼自身の人格・内面に関する描写は殆どなく、どのような言葉、肉声も(それが本当に彼自身の言葉であったかどうかに関係なく)全く記録されていない。彼の性格に関しては、大人しいが自我の弱い人物であるとする説と、反抗的な貴族を容赦なく粛清した冷酷な人物であるとする説の2つがあるが、これは歴史書が彼に言及する時、あくまで脇役の扱いとして断片的な情報しか与えていない事によるものである。こうした人物像の謎については、兄セオドロス2世、ディミトリオスらについても共通の問題である。 ソマスと妻カテリーナ・ザッカリア(1462年8月26日没)の間には以下の息子2人と娘2人が生まれた。
人物
家族と子孫
長女エレニ・パレオロギナ(Helene Palaiologina, Ελ?νη Παλαιολογ?να, 生年不明 - 1473年11月7日)1446年12月にセルビア公ラザル・ブランコヴィチ
マリア=イェラチャ セルビア公(在位:1458年 - 1459年)・ボスニア王(在位:1461年 - 1463年)スティエパン・トマシェヴィチの妻。
ミリツァ イピロス専制公(在位:1448年 - 1449年)・ケファロニア伯(在位:1449年 - 1478年)レオナルド3世トッコの妻