ソポクレス
Σοφοκλ??
誕生紀元前496年頃
アテナイ
死没紀元前406年頃
職業悲劇作家
代表作『オイディプス王』
ウィキポータル 文学
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ソポクレス(ギリシャ語: Σοφοκλ??, Sophokl?s, ギリシア語発音: [so.p?o.kl???s]
; ソポクレース、紀元前497/6年ごろ ? 406/5年ごろの冬[1])は、現代まで作品が伝わる古代ギリシアの三大悲劇詩人の一人。ソポクレスは生涯で120編もの戯曲を制作したが、殆どが散逸し、完全な形で残っているものは7作品にすぎない。また、ソポクレスは、脇役を加えることにより、プロットを説明するにあたってコロスが担っていた重要性を低下させたという点で、作劇法の発展に影響を与えた。また、アイスキュロスなどの先行する詩人たちから、登場人物を大きく発展させた[2]。
ソポクレスは、ソフォクレスとも表記する場合がある。 三大悲劇詩人の残りの二人はアイスキュロスとエウリーピデースであるが、ソポクレスの処女作はアイスキュロスのそれよりも遅くに書かれ、エウリーピデースのものより早く、もしくは同時代に書かれた。 完全な形で現存している作品は、次の7作である[3]。 ソポクレスはレーナイア祭やディオニューシア祭の期間中にアテーナイで開催される悲劇のコンテストで、50年近くのあいだ最も賞賛された作家であった。コンテスト参加30回のうち、1位の栄冠を手にしたのが18回、残りはすべて次点である。3位以下には一度もならなかった[4]。 ソピロスの息子、ソポクレスは、アッティカのヒッペイオス・コローノス
概要
『アイアース』
『アンティゴネー』
『トラキスの女たち』
『オイディプース王』
『エーレクトラー』
『ピロクテーテース』
『コローノスのオイディプース』
生涯詩人を象る大理石の浮彫り。おそらくソポクレスを表す。
父のソピロスは防具製作の職人であり、一家は裕福であった。ソポクレスは高い教養を身につけ、紀元前468年のディオニューシア祭の悲劇コンテストではじめての優勝を手にした。このときは当時のアテーナイの悲劇詩人のあいだで指導的立場にあったアイスキュロスを下しての栄冠であった[1][7]。プルタルコスによると、このときの勝利は異様な雰囲気の中、もたらされたという。
『対比列伝』中の「キモン伝」によると、籤で選ばれた市民が選考する慣習によらず、アルコン(執政官)がコンテストの勝者を決めるために集まったキモンとストラテゴイに諮った。アイスキュロスはこのコンテストにおける敗北のすぐあとにシチリア島へ旅立ち、そこで客死したという[8]。しかし、少なくとも客死したというのは誤伝で、彼はその後10年間はアテーナイで悲劇を制作し続けた。
また、プルタルコスの伝えるエピソードに係る作品が処女作であったということも現代では疑問が呈されている。ソポクレスの処女作は、おそらく紀元前470年のディオニューシア祭で上演された悲劇(その中の一つは『トリプトレモス』である)のどれかである[5]。
紀元前480年、サラミスの海戦におけるギリシアのペルシアに対する勝利を祝う際に、ソポクレスは神に祈りの歌を捧げる合唱隊パイオンの先導者に選ばれた[9]。ソポクレスの創作活動の初期においては、政治家のキモンがパトロンについていた可能性がある。しかし、キモンのライバルだったペリクレスがソポクレスに悪意を抱いたことは一度もなかった。キモンが紀元前461年に陶片追放を受けたときもソポクレスに影響はなかった[1]。紀元前443年から442年にかけて、ソポクレスは「アテーナイの宝」とも呼ばれるヘッレーノタミアイ(英語版)という役職(デロス同盟の財務職)に就き、ペリクレスが政治的に絶頂期にあった時期のポリスの財政運営を手伝った[1]。『ウィタ・ソポクリス』(Vita Sophoclis、ソポクレスの生涯)という書物によると、ソポクレースは紀元前441年にアテーナイの行政をつかさどる十人の将軍の一人に選ばれ、ペリクレスの若き同僚になり、アテーナイ軍のサモス島への遠征に従軍したという。この地位は、ソポクレスの制作した『アンティゴネー』上演の成功がもたらしたものと考えられている[10]。
紀元前420年にソポクレスは自分の家にアスクレーピオス神の祭壇を整え、同神を迎えた。この儀式により、医神アスクレーピオスはアテーナイに導かれたため、アテーナイ市民はソポクレスが亡くなると彼に「デクシオン」(Dexion)、「迎え入れる者」という諡号を送った[11]。ソポクレスはまた、紀元前413年に、ペロポンネソス戦争期間中に、シチリア島へ向かったアテーナイの遠征軍が壊滅したことに対応する事務官(プローブロイ(英語版)の一人に選ばれた[12]。
ソポクレスは紀元前406年から405年にかけての冬の時期に、90歳か91歳で亡くなった。対ペルシア戦争におけるギリシアの勝利と、ペロポンネソス戦争における悲惨な流血とを、その目で見てきた生涯であった[1]。古典古代の有名人の死の多くがそうであるように、ソポクレスの死には数多くの、真偽不詳の尾ひれ羽ひれがつけられた。ソポクレスは自作『アンティゴネー』中の長いセリフを、息継ぎせずに朗誦しようとして絶命したという説がその最たるものである。その他にも、ソポクレスは、アテーナイでアンテステーリア祭が行われているさなか、食事中に葡萄をのどに詰まらせて亡くなったとも、ディオニューシア祭において最優秀の誉れを受けたところ、あまりの幸福ゆえに亡くなったとも言い伝えられている[13]。ソポクレスが亡くなった数ヵ月後、ある喜劇詩人は『詩神たち(ムーサイ)』と名づけた自作の中で、次のような口上を述べてソポクレスの死を悼んだ。「ソポクレスに祝福あれ!かの御仁は長生きし、幸せと才能に恵まれ、多くのよき悲劇を書いた。不運に苦しむことなく、首尾よく人生を終えた。」[14]
一方で、ソポクレスは晩年に耄碌したとして、後見人を必要とする宣言をするよう息子たちから迫られたとも伝えられている。老詩人はこれに対して、法廷で当時未発表の自作『コローノスのオイディプース』の一節をそらんじてみせることによって反駁したと言われている。キケロはこのエピソードを『老年論』の中で詳しく語っている[15]。なお、ソポクレスの息子の一人イオポーン(英語版)や、孫のソポクレス(祖父と同名)もまた、劇詩人になった[16]。
作品と遺産萼型クラテールの外側の凹面白地部分に描かれた古代ギリシアの俳優の肖像。右上の文句は「アイスキュロスの息子エウイアオンは麗しい」と読める。羽のついた兜とブーツを身に着けていることから、ソポクレスの悲劇『アンドロメダー』においてペルセースを演じている可能性がある。