ソフトテニス
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ソフトテニス
ソフトテニス ダブルスの試合風景
統括団体国際ソフトテニス連盟
通称ソフトテニス
起源19世紀
特徴
身体接触無
選手数ダブルス
シングルス
団体戦
男女混合有
カテゴリ球技 ラケットスポーツ
ボール中空のカバーされてないゴム
実施状況
オリンピック採用されたことはないがアジア地区のオリンピックであるアジア競技大会(-ASIAN GAMES-アジアオリンピック評議会OCA主催)の正式種目である(1994-)。
世界選手権1975-
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ソフトテニス(英語: Soft Tennis)は、2対2(計4人)または1対1(計2人)となりプレイヤー同士が中空の柔らかい[注 1]ゴム製のボール[注 2]ネット越しにラケットで打ち合う、近代テニス(ローンテニス・硬式テニス)から極初期[注 3]に分岐し発展した球技。2対2(ダブルス)が主流で、日本を発祥として、主に東アジアを中心としたアジア[注 4]でプレーされるが、近年は東欧でも定期的にトーナメントが開催されている。軟式庭球(なんしきていきゅう、略: 軟庭)、軟式テニス(なんしきテニス)とも呼ばれている。正式名称は、1992年の全面的なルール改定の際にソフトテニス[注 5]となった。
特徴

ソフトテニスは、硬式テニスと同サイズのコートを使用し、似た形状の道具を用いる。ボールは同じゴム製だが硬式テニスはフェルトでカバーされている。ソフトテニスのボールは軽く扱いやすいが、同時に風などの自然条件の影響を受けやすい。また硬式テニスと比べるとスピンが容易である。しかしスピン過多だとしばしば不安定になる特徴がある。
ダブルス中心に発展普及

ほぼダブルス中心の競技として発展してきたのがラケットスポーツとしては特異な点である。ダブルス中心での発展の過程でポジションの専門性(具体的には後衛、前衛のポジションを専門化し雁行陣形を用いる)が高くなったが、近年、オールラウンドプレーがおもに海外から流入[注 6]、いわゆるダブルフォワードが台頭し、多様化が進んでいる。一方で1990年代半ばにシングルスが正式採用され現在にいたる。第二次大戦前には明治神宮大会においてシングルスのルールが整備され実施されたが、連盟が分裂する騒動に発展。結局数年でシングルスは廃止。戦後は長らくダブルスオンリーに。1990年代半ばになって、国際普及での必要性が議論され、シングルスは独自ルール[注 7]が立案され正式採用。国際大会においては1992年にジャカルタで開催された第二回アジア選手権において個人戦シングルスが行われたのが最初となる。翌1993年の東アジア競技大会(上海)では団体戦にも採用(上海大会には公開種目として参加)。国内では1994年に第1回の全日本シングルス選手権が天皇賜杯・皇后賜杯全日本ソフトテニス選手権(ダブルス)と同時開催された.[注 8]
発生と歴史

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伝来

ローンテニスイギリスで発生したのは1874年(明治7年)であり日本への伝播は早くて1878年(明治11年)といわれるが諸説が存在する。表孟宏編による『テニスの源流を求めて』[1]には数々の説が紹介されているが、どれが事実なのかは特定できていない。なかでは明治政府の招きで1878年に来日したリーランド博士がアメリカから用具をとりいれて、赴任校である体操伝習所1879年創設)で教えたという説が一般に広く知られている。がこちらもそれを決定づける確たる証拠はないとされる(前書参照)。
普及

ただ遅くとも体操伝習所が廃校になる1886年頃にはゴムボールをつかったテニスが普及しつつあった。これはローンテニスのボールの国産が難しく、また輸入品も高価であったために、比較的安価であったゴムボール[注 9]で代用した、と伝えられる。

1885年に下村秦大編『西洋戸外遊戯法』、坪井玄道・田中盛業編集による『戸外遊戯法』という本が出版されているが、これらが日本語によるテニスのルールの最初のものとされる[注 10]

1986年に体操伝習所は廃校となったが東京高等師範学校(東京高師、後の東京教育大 現筑波大)に体育専科がおかれ、リーランドの帰国後、体操伝習所において彼の後任主任教員であった坪井玄道[注 11]が教師に赴任、テニス[注 12]の指導をおこなう一方で、三田土ゴム(のちのアカエム)にゴムボール製造を委嘱して、普及に尽力した。
ボールの国産化?黄金時代

三田土ゴムは1890年(明治23年)に製造を開始。日本国産球が完成したのが1900年1908年には特許を取得している[注 13]

東京高師の卒業生は1887年頃から全国に教員として赴任していくが、ボールの国産化はそれと同時に進行していき、ゴムボールをつかったテニスは全国に普及していくこととなった。

1898年(明治31年)、東京高師と東京高等商業学校(東京高商 現一橋大)の間で対抗試合が行われる。これが日本で最初の対抗戦といわれる。以後、両校は毎年対抗戦を行っている。

1902年(明治35年)に東京高師は関西に遠征、さらに高師主導で東京の大学12校による連合庭球大会を開催。いわゆる大会事始めである。この大会は以後、毎年、開催。


1904年(明治37年)、東京高師、東京高商、早稲田慶応の4校の代表が集まりルールを制定。まだまだ不備な点が多々あったものの、これが日本人が制定したテニスルールの最初のものとされる。これ以前は翻訳ルールをそのまま流用していた。

1908年(明治41年)大阪毎日新聞社の主催で中等諸学校連合大会(通称浜寺大会[注 14])が開催される。これはインターハイの前身となる。
慶応硬式転向 と準硬球の登場

1913年(大正2年)に慶應大学庭球部が突如硬式テニスへの転向を宣言。当初追随するところはなかったが1920年にいたり東京高師、東京師範、早稲田、明治、東京帝大等は続々硬式転向を宣言。しかし、一方で社会人クラブは軟式テニスを採用。また女子でも盛んになる。また地方では依然として軟式が隆盛を極めた。1920年、烏山隆夫により準硬球が考案される。これは硬式への転向を容易にするという意図があり、1926年には全国中等学校準硬球大会(前述の浜寺大会)が開催されるほどになったが、昭和初期には姿を消した。
全日本選手権創立

1922年(大正11年)東京における八大倶楽部により東京軟球協会[注 15]が設立され、倶楽部によるリーグ戦を創設開催、その成功を経て全日本選手権(現在の全日本ソフトテニス選手権大会)を時事新報社の後援を得て開催。


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