ソフィー・ブランシャール
[Wikipedia|▼Menu]
ブランシャール夫人の肖像画(死後の1859年に描かれたもの)

ソフィー・ブランシャール(Sophie Blanchard, 1778年3月25日 - 1819年7月6日)はフランスの気球乗りである。先駆的な気球乗りジャン=ピエール・ブランシャールの妻でもある。彼女は職業的な気球乗りとなった最初の女性であり、夫の死後、その仕事を引き継いで60回以上の飛行を行なった。その名は全ヨーロッパに知られ、ナポレオン・ボナパルトは彼女をアンドレ=ジャック・ガルヌランに代わって「公式な祭日のための飛行士」に取り上げた。王政復古期の1814年にはルイ18世に飛行を披露し、「復古王政の公式飛行士」と呼ばれた。

当時のパイオニアたちにとって、気球による飛行は危険を伴うものであった。ブランシャール夫人も高空の低温に晒されたことや、沼地に不時着して溺れかけたことや、何度か失神したことがある。1819年、パリのティヴォリ公園 (Jardin de Tivoli) における公開飛行中、気球から打ち出した花火が気嚢の水素ガスに引火。気球は建物の屋根に墜落して彼女は死亡した。航空事故で死んだ最初の女性となった。

通称ブランシャール夫人 (Madame Blanchard)。マリー・マドレーヌ=ソフィー・ブランシャール (Marie Madeleine-Sophie Blanchard)、あるいは旧姓でマリー・ソフィー・アルマン (Marie Sophie Armant) などの名で言及されることもある。目次

1 前半生

2 単独での活動

3 墜落死

4 死後

5 出典

6 参考資料

前半生

ソフィー・ブランシャールはラ・ロシェルに近いトロワ=カノン (現在のコミューン、イヴ) で、プロテスタントの家庭に生まれた。出生時の名前はマリー・マドレーヌ=ソフィー・アルマン。世界初の職業的気球乗りジャン=ピエール・ブランシャールと結婚する前の経歴はよく分っていない。結婚の年代もはっきりせず、資料によっては1794年[1]とも1797年[2]ともされるが、彼女の初飛行の年でもある1804年説の信憑性が高い。ジャン=ピエール・ブランシャールは最初の妻であったヴィクトワール・ルブリュン (Victoire Lebrun) という女性と4人の子供を捨て、気球乗りとしてヨーロッパ中を巡業していた(元妻は貧困の内に死んだという)[2]。多くの資料がブランシャールの「小柄で、醜く、おどおどした妻」の「痩せた、鳥のような顔立ち」について言及している。後年の資料では「小柄で美しい」[3]のような記述もある。神経質な性情だったソフィーは、神経に障るものが存在する地上よりも、むしろ空中を好んだ[3]。彼女は大きい音が苦手で、馬車に乗ることも苦手だったが空中では大胆不敵であった[3]。ソフィーは1804年12月27日、マルセイユにて、夫と共に気球で初飛行した。その後ブランシャール夫婦は経済観念の欠如から破産の憂き目を見た。彼らは、女性飛行士という新機軸に金銭問題の解決を託した。ソフィーは夫と一緒に2度目の飛行をしたのち、1805年8月18日には3度目の飛行(トゥールーズにあるドミニコ派の修道院の庭から離陸)を行なった。これは彼女の初の単独飛行であった[1][4]

ただし彼女は気球に乗った最初の女性というわけではない。古くは(係留気球だが)1784年5月20日にはモンタルベール (Montalembert) の侯爵夫人および伯爵夫人、ポドゥナ (Podenas) の伯爵夫人、ド・ラガルド (de Lagarde) 嬢なる女性たちがパリで気球に乗っている。自由気球にしても、1798年に「女市民アンリ」(Citoyenne Henri) という匿名女性がアンドレ=ジャック・ガルヌランの気球で飛行したのは有名であり、俗に「気球に乗った最初の女性」と信じられているが、真にその栄誉を担うのはエリザベト・ティブル (Elisabeth Thible) という女性である。彼女はオペラ歌手であり、1784年6月4日、スウェーデン王グスタフ3世を歓迎するためにリヨンで飛ばされた熱気球に同乗した。ブランシャール夫人は、「気球に乗った最初の女性」ではなく「職業として気球を操縦した最初の女性」なのである[5]

1809年、夫のジャン=ピエール・ブランシャールはデン・ハーグでの飛行中に心臓麻痺を起こし、それが元で死亡した。ソフィーはその後も気球乗りを続けた。特に夜間飛行には習熟し、夜を徹して飛び続けることもあった[4]
単独での活動 シャン・ド・マルス公園から飛び立つブランシャール夫人の気球(1810年6月24日)

ソフィーは夫と同様にパラシュートの実験を行なった(自身がパラシュート降下したこともあれば犬をパラシュート降下させたこともあり、見世物の一環としてパラシュート付き花火を打ち上げたこともある[2])が、その主たる興味は気球による飛行にあった。アンドレ=ジャック・ガルヌランとその親族たち(妻、娘、姪)もパラシュートの実演で名を成した。特に姪のエリザ・ガルヌラン (Elisa Garnerin) は女性飛行士としてブランシャール夫人の最大のライバルであった[4]

夫の死亡時、ブランシャール夫婦にはまだ借金が残っていた。そのため、ソフィーは可能な限り経費節減に努めた。彼女が使った気球は水素気球で、熱気球とは違い燃料を置く必要がないため、吊り篭は最小限の大きさに切り詰められた。ガス気球を使うことは、空中で火を管理する煩わしさからの自由も意味した。彼女は小柄で体重も軽かったため、気球に詰める水素ガスは少量で済んだ[1]。とはいえブランシャール夫人が熱気球も使っていた(少なくとも所有していた)ことは確かである。イギリス人フランシス・マチェローニ (Francis Maceroni) 大佐は、1811年に彼女から40ポンドで熱気球を買い入れたことを回想録に書きとめている[6]

ソフィー・ブランシャールはナポレオンのお気に入りとなり、1804年にはアンドレ=ジャック・ガルヌランの後任に指名された。ガルヌランは、パリで行なわれたナポレオンの戴冠式で無人気球の操縦をしくじったために失脚したのである[7](なおその時の気球はローマまで飛んで行ってブラッチャーノ湖に墜落し、ナポレオンの浪費に関するジョークの格好の題材となった)[8]。ナポレオンからソフィーに与えられた肩書きが何であったかははっきりしない。皇帝が彼女を「公式な祭日のための飛行士」 ("Aeronaute des Fetes Officielles) に任命し、大きな行事の際に気球のショーを企画する職務を与えたことは確かである[1]が、それだけではなく「気球大臣」に取り上げたようである。この役職上、ブランシャール夫人は「気球によるイギリス侵攻」のプランを提出したことが記録されている[9] ミラノにて1811年8月15日、ナポレオンの42歳の誕生日記念飛行

1810年6月24日、ナポレオンとマリア・ルイーザの結婚を祝い、近衛隊がパリのシャン・ド・マルス公園で祝賀会を開催した。ソフィーはここで気球を飛ばした。ナポレオン2世が誕生した際にもシャン・ド・マルスから飛び立ち、その旨を告げるパンフレットを空から撒いた[10]。1811年6月11日、ナポレオン2世の洗礼を祝ってサン・クルー城 (Chateau de Saint-Cloud) で開催された公式祝賀会では、気球からの打ち上げ花火を披露した[11]。1811年8月15日、ミラノで行なわれた"Fete de l’Emperor"(皇帝の祭日)でも同じ芸を見せた。1811年にはジョアシャン・ミュラ(ナポレオンの義弟にしてナポリ王)による閲兵式に同行し、悪天候の中をナポリのカンポ・ディ・マルテ (Campo di Marte) から飛んだ[6]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:45 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef