ソビボル絶滅収容所
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ソビボル "天国への道" 2007年撮影

ソビボル強制収容所(Konzentrationslager Sobibor)、もしくはソビボル絶滅収容所(Vernichtungslager Sobibor)は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツポーランド東部のルブリン県ソビボル村においた強制収容所ユダヤ人絶滅を目的としたラインハルト作戦に則って作られた三大絶滅収容所(ソビボル強制収容所、ベウゼツ強制収容所トレブリンカ強制収容所[1]の一つ。1942年4月に完成し、以降閉鎖されるまでの間、ここにユダヤ人、ユダヤ系ソ連兵捕虜、ロマ(ジプシー)などが大量に移送されてはガス室などに送られた。約18万人から24万人の人々がここで殺害されたと見られる。

しかしこの収容所では1943年10月に600人の囚人たちが反乱を起こしており、そのうち約半数が脱出に成功している。この事件がジャック・ゴールド監督の映画「脱走戦線 ソビボーからの脱出(Escape from Sobibor)」(1987年英国)と『ヒトラーと戦った22日間』(Sobibor、2018年ロシア)に描写されている。この大規模脱走事件の後、この収容所は閉鎖された。囚人による反乱で閉鎖に追い込まれたのは数ある収容所の内ここだけで、ソビボルの名は戦後も収容所付近の村の名前として残っている。
収容所の歴史収容所の全体図
建設

三大絶滅収容所のうち、ベウジェツ収容所に次いで完成した収容所である[2][3]。敷地場所はルブリン地区の親衛隊及び警察指導者であり、かつラインハルト作戦執行責任者であるオディロ・グロボクニクが決定した。ルブリンの東方、ウクライナの国境付近の寒村ソビボルは、あまりひと気がなく、森に囲まれて発見されにくく、かつ鉄道が通っている場所で絶滅収容所の立地条件にうってつけであった。このソビボル駅の西側にソビボル収容所を建設することが決定された[2][4]

1942年3月からクリスティアン・ヴィルト親衛隊少佐の監督の下、リヒャルト・トマラ親衛隊大尉の指揮で建設工事が開始された[2][5]。建設工事は民間業者の請負で近隣の村々で検束されたユダヤ人労働者を使って行われた。増改築工事は収容所の取り壊しまで続けられた[6][7]
運営

ソビボル収容所の主要部分が完成した1942年4月中旬にクリスティアン・ヴィルトが40人ほどのユダヤ人女性を使ってガス室実験を行った[8]。ソビボルのガス室はコンクリートの基礎の上に煉瓦で造られた建物の中に3つ設けられていた。戦車と自動車の排気ガスパイプを通じて排出するもので、ベウジェツ収容所の物とほぼ同じながら、少し改良を加えたような物であった[4]

1942年4月28日に最初の所長として赴任してきたのはT4作戦に参加して大量殺戮の経験を持っていたフランツ・シュタングル親衛隊大尉であった。1942年8月にシュタングルに代わってフランツ・ライヒライトナー親衛隊中尉が所長となっているが、この人物もT4作戦関係者であった。二人ともオーストリア出身者であるが、それはグロボクニクがオーストリア出身者であった事が影響していた[7]

ガス殺活動はまず1942年5月初めから7月終わりまでの3ヶ月間行われたが、ヒムラーは1942年7月19日に年末までのポーランド総督府領のユダヤ人の絶滅を決定したため、これまでのソビボルの作業能率では実現は不可能と判断され、一旦稼働が停止され、3つのガス室は取り壊されて新たに5つのガス室が設置された。5室全てが稼働すると1度に400人のガス殺が可能であった。1942年10月からガス殺戮が再開され、それは1943年10月まで続いた[9]。なお殺害した遺体はヒムラーの命令により全て焼却されていた[10]

この収容所で殺害されたのは主にルブリン地方のユダヤ人であった。オーストリアベーメン・メーレン保護領スロヴァキアヴィリニュス・ゲットーミンスク・ゲットーなどのユダヤ人も殺害された。1943年3月から4月にはユーゴスラビアギリシア、そして焼き尽くされたワルシャワ・ゲットーからも移送者があった事が確認されている[10][11]

1943年2月13日には親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがソビボル収容所に視察に訪れている[12]

ドイツの戦況が悪化した1943年7月からはソビボルは弾薬の倉庫として使用されるようになり、弾薬が多く運送されてくるようになったため、ユダヤ人輸送列車の数が減少し、結果としてユダヤ人殺害にも一定の歯止めがかかるようになったが、それでもユダヤ人虐殺は続けられた[13]。さらに1943年10月14日には囚人の大脱走騒ぎがあり、ヒムラーはこの事件の直後にソビボルの閉鎖を決定した。解体作業はドイツ陸軍工兵部隊が行い、この隠滅の痕跡を消し去るため、植林による隠蔽も行われた。
大脱走について.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}脱走を主導したフェルトヘンドラー(左)とペチェルスキー(右)

1943年10月14日の大脱走は二人の囚人、レオン・フェルトヘンドラー(ユダヤ系ポーランド人)とアレクサンドル・ペチェルスキー(通称サーシャ。ユダヤ系のソ連赤軍将校。ドイツ軍の戦争捕虜であったが、ユダヤ系と判明したため軍の捕虜収容所からSSの強制収容所へ移された)が主導して行った脱走であった。10月14日に決行日が定められたのは所長であるフランツ・ライヒライトナー親衛隊大尉とその片腕グスタフ・ワグナー親衛隊曹長のいない日であったためだった。

フェルトヘンドラーとペチェルスキーは脱走しやすくするために頭となる親衛隊員たちの殺害を計画した。10月14日午後4時から午後5時にかけて5人の囚人たちが看守をうまく一人ずつバラックなどに誘導してそこで殺害していった。副所長のヨハン・ニーマン親衛隊少尉、ウクライナ兵を指揮したジークフリート・グライシュッツ親衛隊曹長、囚人の金目の品の没収の任にあたっていたルドルフ・ベックマン親衛隊曹長、事務所勤務のヨゼフ・ヴォルフ親衛隊軍曹など11名の看守を殺害することに成功した。


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