ソビエト連邦陸軍
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ソ連地上軍(ロシア語: Советская Армия)は1946年から1992年にかけてソビエト連邦軍の主力である陸軍につけられた名称。以前は赤軍として知られていた。ソ連陸軍とも呼ばれる。
目次

1 第2次世界大戦後

2 冷戦

2.1 ソ連の崩壊後


3 ソ連地上軍総司令官

4 装備

5 註

6 外部リンク

第2次世界大戦後「ワルシャワ条約機構」も参照

第二次世界大戦の終結後、赤軍は500を超える狙撃師団とその10分の1程度の戦車編成が存在した[1]。戦争の教訓はソ連に戦車部隊への信仰を与え、この時点から戦車部隊の数はほぼ横ばいであったが、歩兵戦力は戦時の3分の2程度に削減された。戦争終結時の戦車軍団は戦車師団へと変換され、1957年から狙撃師団は自動化狙撃師団に変換された。自動車化狙撃師団は3個自動車化狙撃連隊と1個戦車連隊、おおむね合計10個自動車化狙撃大隊と6個戦車大隊からなり、戦車師団ではその後割合が逆転した。

地上総司令は1946年3月に最初に設立され、4年後解散し、1955年には再び編成された。1964年3月、総司令は再び解散されたが、1967年にまた編成された[2]

1946年3月にソ連邦元帥ゲオルギー・ジューコフがソ連地上軍の司令官となったが、7月にはイワン・コーネフに変えられ、この状態が1950年まで続き、その後ソ連地上軍司令官の地位は5年間にわたって廃止された。この組織の断絶は「おそらく朝鮮戦争に何らかの関連があったのではないか」とされている[3]。1945年から1948年にかけて、動員解除によってソ連軍は1130万人から280万人に減らされ[4]、1946年には33に増加していた軍管区が21に減らされた[5]。また、地上軍は982万2000人から244万4000人に人員を減らした[2]

ソビエト連邦の東欧での地勢学的優位性を確保し、確立するために、ナチス・ドイツ支配から東欧を制圧した赤軍は、1945年に東欧の親ソ政権を守り、欧州からの攻撃に対するために配置が維持された。その他の場所では反ソ活動を続ける西ウクライナレジスタンス鎮圧のために彼らはNKVDを支援していたとされている[6]。1955年まで中国北部海岸の旅順口区大連市などの第39軍(英語版)を含むソ連軍は維持され、その後占領地は中国共産党政府に引き渡された。

連邦内のソビエト軍はそれぞれの軍管区に配分されており、1945年には32の軍管区が存在した。このうち16の軍管区は1970年半ばからソ連の崩壊まで維持された。ドイツ駐留ソ連軍のソ連軍の最大動員は反ソ連暴動の鎮圧時であった。東欧軍集団(East European Groups of Forces)はポーランド駐留の北部方面軍集団、ハンガリー駐留でハンガリー動乱を鎮圧したの南部方面軍集団から構成された。1958年、ソ連軍は駐留していたルーマニアから撤退した。1968年のワルシャワ条約機構プラハの春介入後はチェコスロバキアに中央方面軍集団が設置された。1960年代からのソ連東部での中ソ国境紛争は16番目の軍管区であるカザフスタンアルマトイに中央アジア軍管区(ロシア語版)の設立を促した[7]。1979年、ソ連は共産主義勢力の援助のためにアフガニスタンに軍を送り、10年間にわたってムジャーヒディーンゲリラと戦闘した。
冷戦 米国アセスメントによる1981年頃の重要なソ連軍の兵装7点1990年の軍管区[8]

レニングラード軍管区

白ロシア軍管区

バルト軍管区

カルパチア軍管区

キエフ軍管区(英語版)

オデッサ軍管区(英語版)

モスクワ軍管区

沿ヴォルガ・ウラル軍管区

北カフカーズ軍管区

ザカフカーズ軍管区

トルキスタン軍管区

シベリア軍管区

ザバイカル軍管区

極東軍管区

中央アジア軍管区は1988年に解散、ヴォルガ、ウラル両軍管区は1991年に統合された。


詳細は「冷戦」を参照

冷戦を通して、西側情報機関はソ連軍の戦力をおおよそ280万から530万と見積もっていた[9]。この強度範囲を維持するために、1967年までソビエト連邦法はすべての兵役可能な軍事年齢の人間に最低限3年の兵役義務を定めており、1967年以降は地上軍は2年間の徴兵義務に削減した[10]

1980年代中盤、地上軍はおおよそ210個師団からなり、そのうち4分の3が狙撃師団で、残りが戦車師団であった[11]。また、多数の砲兵師団、独立戦車旅団、工兵部隊、戦闘支援部隊などが存在した。しかしながら、完全に戦闘準備ができている編成はごくわずかであった。戦闘準備の対応状態に合わせキリル文字の最初の三文字であるにちなんでА、Б、Вの3部門が存在した。A群の師団は即応対応できることが保障されており、完全に充足していた。Б群とВ群の師団はより低い状態で、それぞれБ群が50-75%(準備に72時間以上)、В群が10-33%(準備に2カ月)であった[12]。内陸部の軍管区はАに分類される師団がおおむね1-2個程度であり、残りのほとんどがБおよびВの師団であった。

冷戦の長期間、ソ連の計画では4個から5個師団からが構成され、4個軍程度から戦線(軍集団相当)を構成することを想定していた。1970年代後半から1980年代前半、ヨーロッパ(西部・南西ヨーロッパ戦略司令部)、バクーなど南部、極東の数個戦線の運用のために戦略司令部に新しい最高司令部が設立された[13]

1955年ソビエト連邦は東欧衛星国との間でワルシャワ条約に調印し、各国の軍を超えるソ連軍による統制を公式化した。ソ連軍は西欧からの侵攻の可能性から形成される冷戦の残した概念から東欧各国の軍を設置し、監督した。1956年以降、ニキータ・フルシチョフは陸軍の核兵器能力を強調する戦略ロケット軍を設立するために地上軍を削減し、また、1957年には地上軍の削減に反対していたゲオルギー・ジューコフを政治局から退かせた[14]。にもかかわらず、戦闘計画の要件を満たすために1980年代半ばまでソ連軍は戦区級核兵器の保有量は少なかった[15]

ロシア連邦軍参謀本部は西欧に対して攻撃する計画を維持しており、ソ連崩壊後にドイツの研究者が国家人民軍の資料に接近した際に計画がかなり大規模であったということが公表された[16]
ソ連の崩壊後 第二タマンスカヤ親衛自動車化狙撃師団(英語版)の兵士、冬季用のアフガンカ(英語版)を着用している、1992年1月、モスクワ

1985年から1991年にかけて、ソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフはソ連経済におけるソ連地上軍の予算負担削減を試み、ソ連地上軍の規模をゆっくりながら削減し、1989年にはアフガニスタンから撤退した。

ゴルバチョフ大統領を解任させようとしたソ連8月クーデターの後、ソビエト科学アカデミーは陸軍の多くはソビエト連邦共産党ネオ・スターリニストが立ち上げたクーデターに参加しなかったと報告した。司令官はモスクワに戦車を派遣したが、クーデターは失敗した[17]


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