ソビエト連邦の宇宙開発
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ソユーズロケット。初の信頼性のある地球軌道上への輸送装置であった。[1]

ソビエト連邦の宇宙開発(ソビエトれんぽうのうちゅうかいはつ)では、1930年代から1991年の崩壊までの、ソビエト連邦によるロケット開発計画と宇宙開発計画全般について述べる。

ソ連の60年を越える歴史において、主に機密扱いのこの計画は宇宙開発分野において数多くの偉業を成し遂げた。世界初となる業績の例を挙げると、大陸間弾道ミサイル1957年, R-7)、人工衛星1957年, スプートニク1号)、宇宙へ行った動物1957年, ライカ)、有人宇宙飛行1961年, ユーリイ・ガガーリン)、人工惑星1959年, ルナ1号)、月面衝突(1959年, ルナ2号)、月面着陸1966年, ルナ9号)、宇宙ステーション1971年, サリュート1号)、火星着陸1973年, マルス3号)などがある。

ソ連の計画はロケットの父ツィオルコフスキーから派生する、ロシア独自の理論的発展を元としていた[2][3]。戦後のソ連のロケット開発と宇宙計画は、ナチスドイツのロケット計画に参加し戦後ソ連に連行されたドイツ人の工学者・科学者の協力の下で進められていたが[4][5]1955年からはソ連の工学者・科学者が中心となって開発を進めた。

セルゲイ・コロリョフ[6]第1設計局の主任であり、「チーフデザイナー」と公的に呼ばれた。宇宙開発競争の競争相手であったアメリカ合衆国は、政府機関や軍部などの宇宙開発をNASAへ統合し、NASAを唯一の調整機関としていたが、ソ連側の宇宙計画は多数の競合する開発グループ(設計局)に分散しており、内部での争いや非効率の原因にもなった。

計画の機密性、プロパガンダ的価値により、成功が確定するまでミッションの成果は公表されず、失敗した計画には後年まで公表されずにいたものもあった。最終的に、1980年代ミハイル・ゴルバチョフグラスノスチ政策の結果として、宇宙計画に関する多くの事実が機密解除された。それらには、ソユーズ1号によるウラジーミル・コマロフの死、ユーリイ・ガガーリンの死、N-1ロケットの度重なる失敗などが含まれていた。

ソ連の宇宙開発の特徴のひとつがクラスターロケット方式の採用である。既存のロケットエンジンを多数束ねる事で容易にロケット全体の推力を増すこの方式は、ドイツ人技術者達の発案を基に開発され[7]、ソ連が初の人工衛星・有人宇宙飛行を達成してアメリカに勝利を収めた原動力のひとつとなったが、有人月着陸においてはN-1ロケット1段目の30連ものクラスターロケットの制御という難題が仇となり、実現できずに終わっている。

ソビエトの宇宙計画はソ連崩壊によって消滅し、ロシア連邦ウクライナがこれらの遺産を受け継ぐこととなった。現在、ロシアではロシア連邦宇宙局[8]によって、ウクライナではウクライナ国立宇宙機関によって宇宙開発が行われている。
初期の開発

宇宙開発の理論は第一次世界大戦前のロシア帝国時代に、ツィオルコフスキーによって確立された。彼は19世紀後半から20世紀初頭にかけて先進的な論文を公表し、中には多段式ロケットの概念も含まれていた。宇宙開発の技術面は1920年代30年代のロケット研究グループ、GIRD(Группа изучения реактивного движения, Gruppa izucheniya reaktivnogo dvizheniya, 略称: ГИРД, 反動推進研究グループ)による初期の実験によって確立された。GIRDではドイツの工学者フリードリッヒ・ザンデルや後のチーフデザイナー、セルゲイ・コロリョフが働いていた。

1933年8月19日、GIRDはソビエト初となる液体燃料ロケットGird-09を打ち上げ、同年11月25日には初のハイブリッド燃料ロケットGIRD-Xを打ち上げる。これとは別に、1940年から41年の間の多連装ロケットランチャーカチューシャの開発と生産により、ソ連の推進力研究が前進する[9]

第二次世界大戦後、ナチスの遺産、特にV2ロケット工場から取得した図面によるリバースエンジニアリングによってロケット工学研究は飛躍する(アメリカもペーパークリップ作戦によりV2ロケットと科学者をアメリカに移送している)。ドイツ人技術者達は当初、ドイツ国内で開発を進めていたが[10]、1946年10月にトヴェリ州セリゲル湖グロドミリャ島等、複数の開発拠点へソビエトのロケット計画を支援する目的で収容される。1947年初頭にソビエトはドイツからすべてのロケット技術の開発をソビエト国内への移送を完了して1947年の秋にソビエト/ドイツ合同チームはカスピ海の北部のカプースチン・ヤール近郊の草原地帯で11機のV2ロケットを打ち上げた[11]

ドミトリー・ウスチノフの指示の下、セルゲイ・コロリョフは図面を精査した。ドイツ人科学者、特にヘルムート・グレトルップの助けを借りて、V2ロケットの複製R-1を製作する。ただし、ソ連の核弾頭を搭載するには更なる強力なブースターが要求された。コロリョフは1930年代後半に自らが実験していた極低温燃料を使用するロケットエンジンの開発に専念した。最終的にこの仕事は大陸間弾道ミサイルR-7[12]の開発に帰結し、1957年8月の試験に成功する。この有効射程と5トンにも及ぶペイロード能力は核戦略上の実用性のみならず、宇宙ロケットとしても優れた土台となった。

コロリョフはドイツ人に教えを請うたり、ドイツ人達が隔離されている島を訪問したことは無かったが、対照的にOKB-456のヴァレンティン・グルシュコは積極的にドイツ人達からノウハウを吸収した[13]。ドイツ人技術者達には新設計のエンジンの詳細は知らされず、RD-100の生産が軌道に乗ってからは彼らの支援はもはや必要なかった[13]

グルトレップ達のチームはコロリョフのチームの開発していたR-2と競合するより先進的なG-1の開発を進めていた[13]。G-1は大きさこそV2と同じだったものの、推進剤のタンクが荷重を負担するようにして構造体を軽量化する事により、推進剤の搭載量を増やし、大気圏再突入時に弾頭を分離式にして、誘導、制御を地上から電波で行うようにして機載の誘導装置を可能な限り簡略化する仕様だった。推進剤のタンクに荷重を負担させるという概念自体は既に1920年代初頭にヘルマン・オーベルトが彼の著作でタンクに荷重を分担させるべきであると記していて、1941年にペーネミュンデを訪問時にも提言していたが、当時は軽量化よりも早期の実用化が優先されており、採用されなかった[13]。エンジンの配置も大幅に変更され、推進剤を供給するポンプを駆動するタービンは燃焼室からのガスで直接駆動された。新しい無線制御装置により、精度が向上した。速度は単に計測されただけでなく、無線で軌道を修正された。エンジンの推力を制御することで速度を調整する事は画期的で1955年にこの装置(RKS)は開発されたが、1957年にR-7大陸間弾道ミサイルに搭載されるまで実用に供されなかった[13]。誘導装置も簡略化され、1自由度のジャイロスコープが備えられ、V2ではAskaniaという油圧式の操舵装置が搭載されていたが、G-1では空圧式に変更され、これにより付随装置も大幅に軽量化され、構造体の重量は3.17トンから1.87トンに大幅に軽量化され、弾頭重量は750kgから950kgへ増加して、尾翼は小型化され、機体は軽合金製になった[13]。それらは当時のソビエトの工業水準では先進的過ぎるとの理由により、開発は中止されたが、誘導装置等の要素技術は後のソビエト製のロケットに導入された[14]スプートニク1号。重量:83.6 kg

ソ連の宇宙計画は五カ年計画と繋がっており、当初からソ連軍の援助に依存していた。1956年1月、スプートニク計画と4機の軍事偵察衛星ゼニット)が承認された。同時に無人月探査1964年までの有人飛行が予定された。世界初の人工衛星、スプートニク1号によるプロパガンダが成功したと判明すると、コロリョフは有人計画を迅速化するように命じられた。有人宇宙船の設計はゼニット計画と結合してボストークを生み出すに至った。

1966年のコロリョフの死後、ボストーク1号の設計者であった[15]ケリム・ケリモフ(英語版)[16]は有人飛行における委員会の議長に任命され1991年までの25年間委員会を率いた。ケリモフの最大の業績の一つは1986年のミールの打ち上げであった。
内部競争セルゲイ・コロリョフ

アメリカの宇宙計画はNASAが唯一の調整機関であり、1960年代のほとんどを通じてジェイムズ・ウェッブ長官が指揮を執ったのとは異なり、ソ連の宇宙計画はコロリョフ、ミハイル・ヤンゲリヴァレンティン・グルシュコウラジーミル・チェロメイに率いられた、複数の設計グループ(設計局)に分かれていた。

1957年から1961年のスプートニクの成功と1961年から1964年のボストークの成功を受けて、コロリョフの第1設計局は影響力を増し、月への有人探査と常駐宇宙ステーションの中心となるべきソユーズN-1ブースターと共に計画を進める予定だった。しかし、ドミトリー・ウスチノフはコロリョフに非常に信頼性の高いボスホートと使った地球近傍計画と金星や火星への無人惑星探査計画に専念するように指示した。

ヤンゲリはコロリョフの助手をしていたが、ソ連軍の援助により1954年、自分の設計局を与えられ主に軍事宇宙計画に従事した。この設計局にはハイパーゴリック推進剤の使用を含めた強力なロケットエンジン設計チームがいたが、1960年のニェジェーリンの大惨事を受けて、ヤンゲリはICBMの開発に専念するよう指示を受ける。彼は軍事的利用と将来の宇宙ステーション建設への輸送利用の両方のために、コロリョフのN-1ロケットに似たデザインの独自の大型ブースターの開発を続けた。

グルシュコはロケットエンジンの主任設計者であったが、コロリョフとの個人的衝突があり、コロリョフが必要としていた大型シングルチャンバー極低温エンジンの開発を拒否した。

チェロメイはフルシチョフの支援を受け、1960年に月や軍事宇宙ステーションに有人船を送るロケットの開発という仕事を与えられるが、経験に乏しく彼の開発は遅れた。

1960年代初頭の一時期には、ソ連の宇宙計画は30ものロケットや宇宙機の開発プロジェクトを抱えており、設計局の主任は互いに争い、自らのプロジェクトを実現させるため共産党や軍の首脳との個人的な関係構築に追われていた。結果、これら乱立するプロジェクトに予算は分散してしまった。

フルシチョフの失脚により、1964年コロリョフは有人飛行計画の完全な指揮権を与えられる。
コロリョフの死後

コロリョフは1966年1月に大腸癌の手術中に心肺停止し、死去する。ヴァシーリー・ミシンはコロリョフの後任として第1設計局長となり、1967年に有人月周回、1968年に有人月面着陸を果たす予定であった。前スペースパビリオン:全ロシア博覧センター


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