ソビエト帝国(ソビエトていこく、英語: Soviet Empire)という言葉は、狭義には西側諸国におけるクレムリノロジーの観点からソビエト連邦を植民地帝国とみなして用いられる語である。この用例は、アメリカ合衆国の歴史学者リチャード・パイプスのThe Formation of the Soviet Union (1954年)が初出であるとされている[1]。広義には、冷戦下で行われたソ連の外交政策を帝国主義的であるとみなして用いられる語である。これはソ連の勢力圏に置かれた東側諸国が、形の上では独立国として独自の政府を持っていたにもかかわらず、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍の軍事的介入(1956年のハンガリー動乱、1968年のプラハの春、1980年のポーランド介入など)の恐怖によってその意向に沿わなければならなかった事実をもとにしている。こうした影響下に置かれた国々は、ソ連の衛星国だったとみなされることもある。ソビエト連邦の1959年から1961年までの勢力圏 ソ連は国家の建国理念としては君主や皇帝を戴かず、むしろ反帝国主義と人民民主主義を掲げていた。しかし、この民主主義的な建国理念にもかかわらず、実際にはソ連が歴史上の帝国や独裁国家に似た性格を持っていて、弱小国に対して様々な支配行動をしていたと批判される[2][3]。ソ連は多民族帝国と国民国家の混合形態だったと分析する学者もいる[2]。 また他の列強と同様に、ソ連も事実上の植民地主義政策をとっていたとする指摘もある[3]。ソ連と対立した後の中国における毛沢東思想は、ソ連を社会主義者の見かけをした帝国主義大国であると批判している。 また文化帝国主義的な面でソ連を帝国と呼ぶ場合もある。地元の伝統を排してソビエト連邦の文化・教育を植え付けようとする政策はソビエト化
特徴
社会主義的な傾向のある国々へ影響力を保つために、ソ連は国際協力と称して莫大な経済支援を行った[5]。しかしこれは次第にソ連自体の経済を苦しめることになった。ソビエト連邦の崩壊後、後継国家となったロシア連邦はソ連が1030億ドルの対外負債(海外に有する資産は1400億ドル)を抱えていたと発表している[5]。 「ソビエト帝国」に含まれていたとみなされている国々は、以下のとおりである[6][7]。
影響力
衛星国ソビエト連邦(赤)およびその衛星国(ピンク)。ユーゴスラヴィア(紫)は1948年までソ連の同盟国だったが、後に決別
特にソ連と深い経済関係を持ち、同盟も組んでいて、そして同じ共産主義思想を信じている国々は「衛星国」と呼ぶ。衛星という言葉はソ連は太陽のように全領域の中心的な地位を独占し続け、周りの国は衛星のようにソ連の政策を従うしかない実態を表している。これらの衛星国たちはたびたび経済相互援助会議(コメコン)に出席しており、特に東ヨーロッパの国々はワルシャワ条約機構にも加盟していた。
英米など資本主義陣営ではソ連の傀儡政権(主に東ヨーロッパの共産主義国家やモンゴル)を全部「衛星国」とみなしていた。
アフガニスタン民主共和国
アルバニア社会主義人民共和国 (1961年にコメコンを脱退
その他の共産主義国家の中には、ソ連と距離を取ったり、批判を行ったりするものもあった。中には中国のようにソ連と軍事衝突に至るものもあった。
ユーゴスラビア (インフォルムビロ期; 1948年?1955年)
アルバニア社会主義人民共和国 (1955年のソビエト・アルバニア対立から1972年の中ア対立まで)
中華人民共和国 (中ソ対立後。1969年の中ソ国境紛争でソ連と軍事衝突)
民主カンプチア (1975年?1979年、カンボジア・ベトナム戦争のため)