ソニー・スティット
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ソニー・スティット
Sonny Stitt
ニューヨークのソニー・スティット(1976年7月6日)
基本情報
出生名Edward Hammond Boatner Jr.
生誕 (1924-02-02) 1924年2月2日
出身地 アメリカ合衆国 マサチューセッツ州ボストン
死没 (1982-07-22) 1982年7月22日(58歳没)
アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
ジャンルジャズビバップハードバップ
職業サクソフォーン奏者
担当楽器テナー・サクソフォーン
アルト・サクソフォーン
活動期間1943年 - 1982年
共同作業者ビリー・エクスタインチャーリー・パーカージーン・アモンズジョニー・グリフィンマイルス・デイヴィス

ソニー・スティット(Sonny Stitt)こと、エドワード・ハモンド・ボートナー・ジュニア(Edward Hammond Boatner Jr.、1924年2月2日 ボストン[1]1982年7月22日 ワシントンD.C.)[2])は、ビバップ期およびハードバップ期に活躍したアメリカ合衆国ジャズサクソフォーン奏者。チャーリー・パーカーの最も優れた弟子と看做されており[3]ブルースや、《スカイラーク(Skylark)》のようなバラードによってとりわけ深い感銘を与えた。同世代の他のサクソフォーン奏者に比べると、もっとも多くの録音を行った一人であり、生前に100点以上の録音を残した。スティットの演奏は、最初はチャーリー・パーカーレスター・ヤングに大きく触発されていたが、ゆくゆくは自身の演奏様式を繰り広げ、今度は自分がジョン・コルトレーンを感化することとなった。アメリカ在住のドイツ人ジャズ評論家、ダン・モルゲンシュテルンは、スティットのあくなき演奏旅行とジャズへの献身を評して、「一匹狼」というあだ名を献上している。
略歴
生い立ち

マサチューセッツ州ボストンに生まれ、ミシガン州サギノーに育つ。家庭の環境は音楽的であり、父親は大学の音楽教授で母親はピアノ教師、兄弟もクラシック音楽の教育を受けたピアニストであった[1]1943年に初めてチャーリー・パーカーと出逢う。後にスティットが述懐したところによると、二人は互いの演奏スタイルが非常に似通っていることを認め合ったという。このような類似が見られたのも、スティットが摸倣したからだけではなく、部分的には偶然のためでもあった。スティットの最初期の録音は、スタン・ゲッツディジー・ガレスピーとの共演によって1945年に行われた。スティットは専らバップ様式のバンドで演奏したとはいえ、すでにスウィング様式のいくつかのバンドで経験を積んでいた。スティットは、1940年代初頭にタイニー・ブラッドショウのビッグバンドの花形となり、1945年にはガレスピー楽団でチャーリー・パーカーの後任になっている[2]

スティットは、1945年から1949年まで、ビリー・エクスタインビッグバンドにおいて、将来のバップ様式の先駆者であるデクスター・ゴードンジーン・アモンズと並んで、アルト・サクソフォーンを受け持った。退団する頃にはテナー・サクソフォーンをより頻繁に演奏するようになる。その後はアモンズやバド・パウエルと共演した。1948年から1949年まで麻薬密売の罪でレキシントン監獄に収容されている。

このことが原因で、1971年10月2日に開催された第3回ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・トーキョー出演予定であったスティットを含むディジー・ガレスピーカイ・ウィンディングセロニアス・モンク、アル・マッキーボン、アート・ブレイキーの6人、即ち「ジャイアンツ・オブ・ジャズ」の一行は7月から来日していたが、スティットだけが羽田空港に降り立ちながらも入国管理局審査が下りず、強制送還される結果となってしまった。結局「ニューポート・イン・トーキョー」での「ジャイアンツ・オブ・ジャズ」は、スティットを除いたクインテット編成で公演がとり行われた。

結局、スティットに入国が許可されるのは、1978年9月25日のモントルー・ジャズ・フェスティバル・イン・ジャパンまで待たねばならなかった。1978年に晴れて日本のステージを踏んだスティットは、これを大変に喜び、日本のファンに対して事前に大サービスの計画をしていた。前年の1977年9月3日、王貞治ハンク・アーロンの記録を抜く756号ホームランを達成。「モンタレー・イン・ジャパン」開催の約3週間前、1978年8月30日に放たれた800号ホームランに日本中の国民は沸き返っていた。武道館でのステージ上、スティットは自分のソロ・オーダーが回ってくると、王選手の一本足打法を模した姿でテナー・サックスを吹いたのだ。流麗無比なアドリブ・フレーズと共に、このステージアクションに日本の聴衆が大歓声をあげるという光景は語り草となっている。

テナー・サクソフォーンを演奏する時は、スティットはチャーリー・パーカーの真似をしているとの非難を免れたように思われた。但し、どうやら上記のアモンズとの共演の場合には、大きめの楽器が役立ったというのがその要因だったらしい。事実テナー・サクソフォーンでは、格段に際立った音色を繰り出すようになったのである[1]。その他のバップ・ミュージシャン、例えばバド・パウエルや、スティットに比べて硬い音色のテナー・サクソフォーン奏者エディ・ロックジョウ・デイヴィスと共演し、1950年代になると、サイドマンとしてプレスティッジのほかにアーゴやヴァーヴルーストといったレーベルに多数の録音を行なっている。1950年代後半にはアフロキューバン・ジャズを試みており、その成果はルースト・レーベルやヴァーヴ・レーベルへの録音、例えばサド・ジョーンズチック・コリアと組んだラテン風の《枯葉》の解釈に認めることが出来る。

スティットは、1960年に短期間マイルス・デイヴィスの仲間になったが、デイヴィス・クィンテットとの録音は、1960年のツアーのライブ音源によってしか確かめられない。マンチェスターパリでのコンサートは商業的に入手可能であり、(ジョン・コルトレーンとの初期のクィンテットを含む)多くのコンサートは、『ライヴ・アット・ストックホルム(Live at Stockholm)』(ドラゴン)としてレコード化されている。これらすべてにおいてウィントン・ケリージミー・コブポール・チェンバースが異彩を放っている。しかしながらマイルスは、酒癖の悪さのためにスティットを解雇し、ハンク・モブレーを後任に据えた。

友人で演奏家仲間のジーン・アモンズとは、たくさんの忘れがたい名録音を遺したが、アモンズが薬物不法所持で投獄されたために録音が中断を見てもいる。


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