ソシエテ ジェネラル
Societe Generale S.A.
種類株式会社
市場情報Euronext: GLE
ソシエテ・ジェネラル(Societe Generale S.A.)は、フランスでBNPパリバに続くメガバンク。世界約80カ国以上で個人と企業の双方を顧客とし、プライベートバンキングを営み投資信託取引も担う。ゴールド・フィックス(Gold fixing)加盟行。ソジェン・ベルジック(Societe Generale de Belgique)とは異なる。 1852年、ペレール兄弟(Freres Pereire
沿革
ペレールの退場
1863年、同シンジケートの大部分がジェネラル・クレジット(General Credit and Finance)を資本金2億5千万フランでロンドンに創立。トーマス・ブラッシー(Thomas Brassey)がリーダーシップをとり、ジェネラル・クレジットはエジプト・近東で活躍した。1864年5月、ソジェンがシンジケートを更新する形で創業(Societe Generale pour Favoriser le Developpment du Commerce et de l'Industrie en France SA, 資本金1億2千万フラン)。シュナイダーエレクトリックのウジェーヌ(Eugene Schneider)が社長となった[2]。ロスチャイルド家は出資をしなかったのに、アルフォンス・ド・ロチルドを監査役に就けた。普墺戦争の翌年、短期資本の塊であったクレディ・モビリエが不動産投機に失敗し破産した。後に中国興業銀行がペレールの轍を踏むことになる。
無敵となったソジェンは、金属工業の盛んなサン=テティエンヌとクレルモン=フェランに支店を出した。普仏戦争までにアルザスにも支店を出していた(ストラスブールとミュルーズ、少し遅れてコルマール)。1871年、初の海外支店をロンドンに開設した[2]。 1876年、イスマーイール・パシャへの借款を回収できなくなった農業信用銀行(Societe du Credit Agricole)が倒産した[3]。この事件は50年後のクレディ・アグリコル誕生までにおいて、フランス農業金融に対する最初の試練であった。農業信用銀行はクレディ・フォンシエ(Credit foncier de France
ソジェンとソジェナル
1880年ドイツ帝国が北東アルザスの子会社を閉めるか分離するかせよと命令してきたので、1881年ソジェナル(Sogenal)を独立させた[2]。一方でオスマン債務管理局が発足して債権回収の目途が立った。ソジェナルがドイツで勢力を拡大するにつれ、ドイツ系銀行が同局の開発利権に食い込んできた。1888年、ソジェンがオクタヴ・オンベルグ・パパを派遣してインドシナ銀行の重役を任せた。
三国干渉でフランス資本は広東に足がかりを得た。そして露清銀行の主導権を奪いかけたロシアを日露戦争が動揺させた。1906年、ソジェンはユニオン・ミニエールの設立に参加。1910年、子会社の北方銀行(Banque du Nord)を露清銀行と合併(露亜銀行)。ソジェンは主導権を奪い返そうとするが、思うようにはいかなかった。ロシアはオスマン攻めやポーランド分割のときからプロイセンと交渉をもっており、サンクトペテルブルクの中央銀行にロスチャイルドの代理人が送り込まれていた。
1913年、ソジェンはドイツ・オリエントバンクのモロッコ支店を買収した。一方、インドシナ銀行の天津支店長だったペルノット(Joseph Pernotte)が創立計画を立てていた中国興業銀行(Banque industrielle de Chine)が同年に発足した[4]。