公用語ハウサ語
フラニ語
アラビア語
宗教イスラム教スンナ派
首都ソコト
スルターン
ソコト帝国(ソコトていこく、アラビア語: ???? ??????? ?? ???? ???????)は、現在のナイジェリア北部に存在した国家。19世紀初頭にウスマン・ダン・フォディオのジハードによって建国され、1903年にイギリスの保護領となるまでおよそ100年間存続した。 ソコト帝国という名称は、帝国が首都を置いたソコトから来ている[2]。ただし、このソコト帝国という名称がナイジェリアの独立後の1964年に、ナイジェリアの歴史家の間で学術的に容認されるまでは「フラニ帝国」という名称が主に用いられていた[3][注 1]。それ以外にも、「ソコト・カリフ国」や[5]、「ソコト太守国」とも呼称される[6]。 ハウサ地方(現在のナイジェリア北部)についての記録である『カノ年代記』によると、ソコト帝国が建国されることとなるハウサ地方には14世紀後半に西方よりイスラームが伝来し、15世紀中ごろにはアラブ人が定住した[7]。イスラーム的要素の強いハウサ諸王国が形成されたが、これらの国家は15世紀末にはソンガイ王国の支配下に置かれて朝貢を課された。16世紀末にモロッコの侵略によってソンガイ王国が衰退すると、その支配を逃れたハウサ諸王国は活発な商業活動を開始した[8]。 ソコト帝国建国の中心となるフルベ人はセネガル川流域を起源としている。15世紀ごろから東方に移動を開始し、18世紀ごろには西アフリカのサヘル地帯のほぼ全域にわたって分布するようになった[9]。 ソコト帝国の建国者となるウスマン・ダン・フォディオは、1754年、ハウサ諸王国のひとつであるゴビールに住むフルベ人の熱心なムスリムの学者の家庭に生まれた[10][11]。彼は弟であるアブドゥラーヒとともにイスラーム教育を受けた[12]。20歳になった彼はジブリール・ウマルという教師の下で学び、そのなかで西アフリカで最も勢いがあったカーディリーヤに入った[13][注 2]。イスラーム聖職者となった彼は、1774年ごろから説教師としての活動を開始した。彼は、当時のゴビール王であったバワが、イスラームの教義で禁じられているムスリムの奴隷化や、教義にない税の徴収をしていることを批判した。ゴビールの住民は軍隊維持のための重税に苦しんでおり、彼は民衆からの熱烈な支持を得た[11]。
名称
歴史
背景1625年の西アフリカの地図。右側にハウサ諸王国が記されている。