ソグド人
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駱駝舞楽胡人俑。ラクダに乗って演奏する胡人の像。俑は副葬用の人形のことで、俑の胡人はソグド人を表す。唐代、陶磁器製〈唐三彩唐#美術

ソグド人(ソグドじん、粟特人、: sogd)は、中央アジアザラフシャン川流域地方に住んでいたイラン系ペルシア系)のオアシスの農耕民族[注釈 1]。また、商業を得意として定住にこだわらず、シルクロード周辺域の隊商をはじめとして多様な経済活動を行った[2]。ソグド語はイラン語派に属するが、ソグド人は隊商のことをイラン語系のキャラヴァンではなく、サールトと呼んだ。これはサンスクリット語のサールタ(?????)に由来しており、インドの商人がソグド人と同じかそれ以前から活動していた可能性を示している[2]

ソグド人はアケメネス朝の支配下にあった頃より交易に従事した。マケドニア王国アレクサンドロス3世の征服や、その後のグレコ・バクトリア王国支配下においても交易を続けた[3]クシャーナ朝エフタル突厥と、たびたび遊牧国家の支配を受け、その都度支配者が変遷したが、ソグド人は独自の文化を維持した[4]ソグド語ソグド文字を使い、宗教的にはゾロアスター教を信仰したほか、2世紀から3世紀にかけては中国に仏教を伝えた。6世紀から7世紀にはマニ教とキリスト教のネストリウス派を中国やテュルク人に伝え、東方のイラン系精神文化も中国にもたらした[3]。活動範囲は東ローマ帝国から長安にまで及んだが、イスラム勢力の台頭によりイスラム化が進み、12世紀にはその民族的特色は失われた。ソグディアナはウズベク人の南下によるテュルク化が進んでいき、中国では漢人の文化に同化していった[3]
地理・活動範囲紀元前2世紀頃のソグディアナ(ソグディアノイ)の位置。

ソグド人の主な居住地であるソグディアナは、アム川シル川の中間にあたり、シルクロードの中間に位置する[注釈 2][5]。ソグド人が各地で交易を始めたきっかけは、ソグディアナの人口増加にあるとも言われている。灌漑農耕で生活できる人口を超えて過剰となったため、ほかの土地に出て交易を生業にしたという説である[6]

ソグディアナの東では交易路沿いの各地にソグド人が集落を作り、中国の京師(長安洛陽)にも住んでいた。また、中国東北部の渤海国にもいたと推測されている。ステップルート(英語版)(草原の道)においては、モンゴル高原・カザフ草原・南ロシア草原を結ぶ各地に住んだ。ソグド人はインドやチベットにも進出したが、主な活動は中国から豊富な物資が送られてくる東方だった。こうした集落を拠点として商売が行われ、移動するソグド人にとって取り引きや情報収集で必要な場所となった。ソグド人の集落は、すでにある都市から離れた場所に建てられて混住を避けた。長安や洛陽のような大都市では、城内の居留区域に住んだ[7]。遠距離貿易をするソグド人の中には、家族をソグディアナに残して遠方に滞在しつつ、中国などに人を派遣する者もいた。裕福な商人は、支店や代理人によるネットワークを構築した。遠距離交易のほかに、各地に常駐して日常的な商売を行うソグド人もいた[8]
政治

オアシスの都市国家は地域によって政治体制が異なっていた。ソグディアナのオアシス国家では富豪の代表者が王であり、タリム盆地のオアシス国家は世襲の王が支配した[4]。中国内地のソグド人集落では、5世紀から薩宝(さっぽう)と呼ばれる官がリーダーとして治めた[注釈 3]。トゥルファンのオアシス国家である?氏高昌では薩簿という官職がリーダーを務めた。薩宝の下には司録と呼ばれる役職があり、文書管理を行った。これらの役職は集落の自治として定められたと推測されている[10]
歴史
アケメネス朝ペルセポリスアパダーナ (謁見の間)のレリーフに彫られたソグド人。紀元前5世紀、ダレイオス1世に貢物を運んでいる。ソグド人の兵士。紀元前338年。アルタクセルクセス3世の墓より

アケメネス朝時代からソグディアナに都市文明があり、紀元前8世紀から紀元前7世紀にはアフラシアブやコク・テペ(Kok Tepe)で人が暮らしていた。コク・テペは衰退するが、アフラシアブはのちにソグディアナの中心都市の一つであるサマルカンドとなる[11]。ソグド人についての最古の記録は、ゾロアスター教の経典であるアヴェスターに付けられた注釈の『ゼンド・アヴェスター(英語版)』であるとされている。イランの最高神オルムズが自らの創った国々の名を挙げている中で、「スグドの地のガウ」という言葉が出てくる。また、頌神書である『ヤシュト書(英語版)』にも出てくる[12]

キュロス2世がソグディアナを征服してソグディアナはアケメネス朝の支配下となり、ダレイオス1世によって宮殿が建設された。宮殿の基礎部分にあったベヒストゥン碑文には、ダレイオス1世に臣従した23国の一つとしてスグダと刻まれている。ダレイオス1世に対する貢物も記録されており、ソグディアナからはラピスラズリカーネリアンが運ばれた。ラピスラズリは南東に鉱山があったバダフシャンから、カーネリアンはインドのグジャラートから産出したと推定される。ソグド人はシル川のサカ族と接触しており、アケメネス朝様式の模様がある絨毯などの遺物が発見されている[13]

古代ギリシャヘロドトスも『歴史』においてソグドイ人、ソグディア人と記している。アケメネス朝の臣下となったソグド人は、パルティア人、コラスミオイ人、アレイオイ人とともに第16番目の州(納税区)に属し、300タラントン[注釈 4]を納めることとなった。クセルクセス1世のギリシア遠征において、ソグド人はアルタイオスの子であるアザネスの指揮下で従軍した[14][15]
ヘレニズム国家紀元前300年頃のソグディアナ

アケメネス朝の支配は、マケドニア王アレクサンドロス3世の征服によって終了する。アレクサンドロス3世の軍隊が中央アジアに侵攻してサマルカンド(マラカンダ)を攻め落とした時、抵抗したソグド人の死者は約3万人にのぼったと歴史書にある。ソグド人の将軍スピタメネスの抵抗は激しく、長期間のゲリラ戦に手を焼いたアレクサンドロスは、中心都市の占領のみで矛を収め、将兵にソグド女性との婚姻を奨励するなど住民との融和に努めた。アレクサンドロスの死後は、グレコ・バクトリア王国が成立してソグディアナを支配した。マラカンダを中心とするソグディアナ一帯は周辺の諸民族の乱入による混乱が続くが、その間にソグド人は東西貿易に従事する商人として優れた才能を発揮するようになる[16][17][11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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