ゼロックス
Xerox Corporation
本社
種類株式会社
市場情報NYSE: XRX
ゼロックス(英語: Xerox Corporation)は、印刷機器の製造販売を行うアメリカ合衆国の会社。フォーチュン500に入っている。プリンター、複合機、複写機、デジタル印刷機、および関連サービスを提供している。創業地はニューヨーク州ロチェスター。現在の本社はコネチカット州ノーウォーク(2007年10月、ニューヨーク市北東郊のコネチカット州スタンフォードから移転[1])だが、主要な施設は今もロチェスター周辺にある。ゼロックスはエリザベス2世とチャールズ3世の御用達でもある。 1906年、ロチェスターで「The Haloid Photographic Company(ハロイド)」として創業[1]。当初は印画紙や関連機器を製造していた。1958年に「ハロイド・ゼロックス (Haloid Xerox)」、1961年に「ゼロックス (Xerox)」と改称した[2]。Xeroxの名称は同じロチェスターで創業されたコダック(Kodak)に倣って、最初と最後が同じ文字で力強い響きの単語として考案されたもので、その語そのものに特別な意味はない[3]。 1959年、チェスター・カールソンが開発した電子写真技術(後にゼログラフィと改称)を使った世界初の普通紙複写機ゼロックス914
歴史
914をリリースする以前、ゼロックスは市場調査を兼ねてプロトタイプの手動複写器 "Flatplate 1385" を発売していた。それに続いてゼログラフィ式プリンター "Copyflo" を1955年に発売している。Copyflo はマイクロフィルムをロール紙に拡大印刷する大型プリンターであった。次にCopyfloを小型化した 1824 マイクロフィルムプリンターを発売。大きさと重さが約半分になり(それでもかなりの大きさである)、手でカットシート紙を「グリッパーバー」と呼ばれる部分に供給すると、そこに紙が引き込まれて印刷が行われる仕組みだった。この給紙方式は後の813デスクトップ複写機にも採用された。
1963年、初のデスクトップ普通紙複写機 Xerox 813 を発売。これでついにオフィスの机の上に置ける複写機を実現するというカールソンの夢が現実となった。10年後の1973年、914をベースとしたアナログ式カラー複写機が登場した。914の系統は高速化を目指し、420、720 と続いた。813の系統も同様に 330、660 と続き、デスクトップ型マイクロフィルム(マイクロフィッシュ)プリンター 740 も登場した。
チェスター・カールソンが最初に開発した機器をそのまま製品化した 1385 Flatplate は、複写に時間がかかり実用的ではなかった。しかし、当時市販されていた製版用カメラよりも高品質の版が作れたため、オフセット印刷機市場で製版機として売れた。ただし、印刷版として使うため素材はガラス板からセレンをコーティングしたアルミニウム板に見直された。その後、製版用フィルムの再利用可能な代替品として急速に発展し、熟練したユーザーなら他のどんな技法よりも高品質な版下を素早く作成できるようになった。オフセット印刷用製版機市場から始まって、ゼロックスは今ではオフセット印刷機の市場である程度のシェアを占めるまでになった。
単なるコピー機を越えた複写機への最初の挑戦が Xerox 2400 だった。2400という数字は1時間で印刷できる枚数を表している。オフセット印刷機よりは遅いものの、業界初の自動給紙機構、スリッタ/せん孔装置、丁合機(ソータ)を導入した機械だった。直後に印刷速度を1.5倍にした Xerox 3600 Duplicator を発売している。
そのころ、小さな研究チームが複写機を借りて、それを改造していた。LDX (Long Distance Xerography) と呼ばれたプロジェクトで、2つの複写機を公衆電話網で接続し、ある複写機でスキャンした文書を遠隔地にある別の複写機で出力する実験である。プロジェクトは何年もかけ、Xerox Telecopier として結実した。今日の家庭用ファクシミリの原型である。付随的に、現代のデジタル複合機の多くはファクシミリとしても使えるようになっている。
1969年、ゼロックスは Scientific Data Systems (SDS) を買収し、32ビットメインフレームコンピュータ Sigma シリーズを1960年代から1970年代にかけて製造販売していた。
レーザープリンターは1969年、ゼロックスの研究者ゲイリー・スタークウェザーがゼロックスの複写機をベースに発明した。1977年、最初の製品 Xerox 9700 を発売。レーザープリンターはゼロックスの大きな柱の一つとなった。1971年、Archie McCardell が社長となった[5]。彼の在任期間中、ゼロックスはカラー複写機を製品化している[6]。その間の1973年と1974年と1975年、ゼロックスは売り上げや収益の新記録を達成している[7]。
3年連続で売り上げ記録を更新した後の1975年に、当時 Frederic M. Scherer が率いていたアメリカ連邦取引委員会 (FTC) との間の独占禁止法違反訴訟を解決した。判決により、ゼロックスは競合他社(主に日本)に特許をライセンス供与しなければならなくなった。その4年後、ゼロックス社のアメリカでの複写機のシェアは100%から14%に低下した。
1970年、パロアルト研究所 (Xerox Palo Alto Research Center) を開設。1973年、アラン・ケイらが持ち寄った研究費を使いチャック・サッカーが Alto を開発。この試作機は、当時のミニコンピュータと同等かそれ以上の速度で動作しながらもそれより安価で、ブラウン管を使ったビットマップディスプレイ、マウス、キーボードを備えていた。ケイらはこのマシンを使って暫定的Dynabook環境(Smalltalkシステム)を構築。後に主流となる WIMP(ウィンドウ、アイコン、メニュー、ポインティングデバイス)スタイルのグラフィカルユーザインターフェース (GUI) を1977年頃までに段階的に整備した。ゼロックス社がその市場価値を見抜けなかったためケイらの想定していたパーソナルコンピュータとしてのAltoは結局製品化されることはなかったが、Altoのハードウエア技術は後述のXerox Starシステムに転用され、別部門で開発されたGUI OSを搭載したワークステーション、あるいはSmalltalkをプロフェッショナル開発者向けの統合化開発環境として位置づけなおしたエンジニアリングワークステーションとして販売されることになる。Altoは試作機ながら最終的には1500台ほど生産、世界中のゼロックスのオフィスやアメリカ政府や米軍に設置され多くの人がその能力を目にする機会を得た。それらはゼロックスの開発したLANであるイーサネットで相互接続されていた。そしてデータはパケット化されて転送された。間もなくゼロックスの技術者らがサイト間を接続するシステム 'Inter Network Routing' を開発した。当初の世界的ネットワークはゼロックス社内のものと、同じ技術を使ったアメリカ政府のものだった。他にアドビシステムズ(現:アドビ)創設者のジョン・ワーノックが開発したインタープレスや、AltoをLISPマシンにするInterlisp-Dシステムなどがある。
1979年、ゼロックスは、同社の開発に興味を持った業界関係者にも報道関係者にも門戸を開いていた。たいていは無難なデモを行なったが、Appleの従業員数名を伴いパロアルト研究所を訪れたスティーブ・ジョブズは本格的なデモンストレーションを要求。SmalltalkによるWIMPスタイルのGUIを目の当たりにすることになる。その価値を見抜いたジョブズは仕様策定中のLisaの開発でそれらを取り入れるよう方針転換した。