ゼノン
Zeno
Ζ?νων
東ローマ皇帝
ゼノン
在位474年2月9日 - 491年4月9日
全名フラウィウス・ゼノ・アウグストゥス
出生426年
死去491年4月9日
配偶者アルカディア
アリアドネ
ゼノン(ラテン語: Flavius Zeno Augustus, ギリシア語: Ζ?νων, 426年 - 491年4月9日)は、東ローマ帝国の皇帝(在位:474年 - 491年)。アナトリア半島イサウリア地方の少数民族イサウリア人(ドイツ語版、ハンガリー語版、オランダ語版)の族長で、旧名はタラシコデッサ。 ゼノンは旧名をタラシコデッサというイサウリア人
概要
生涯
即位以前(ドイツ語版、ハンガリー語版、オランダ語版)の族長だった人物で、旧名はタラシコデッサだった[2]。
ゼノン(当時はタラシコデッサ)の初期の経歴は不明だが、460年代になってイサウリア人の大規模な雇用を開始した東ローマ皇帝レオ1世によってゼノンも雇用された。ゼノンは466年に皇帝レオ1世と不仲であったアラン人の将軍アスパルの長男アルダブリウスをサーサーン朝との内通の嫌疑で告発することでレオ1世に取り入り[2]、レオ1世の娘アエリア・アリアドネ(英語版)と結婚してギリシア語でゼノンと名乗るようになった[2]。467年にはアエリア・アリアドネとの間にレオ2世が生まれ[3]、まもなくゼノンはトラキアの軍司令官に取り立てられ[3]、469年には最高官職である執政官にも就任した[3]。
しかしゼノンは469年にトラキアで反乱鎮圧に失敗し、命からがら逃亡する醜態をさらして軍司令官から罷免されてしまう[3]。468年には皇帝レオ1世も、先に失脚させたアスパルの反対を押し切ってアフリカへヴァンダル族討伐の大船団[注 1]を派遣して、船団の半数を失う大敗を喫していた[3][4]。こうしたレオ1世とゼノンの失態により東ローマ帝国では再びアスパルが名声を取り戻し[4][5]、アスパルの次男ユリウス・パトリキウス(英語版)がレオ1世の娘レオンティア(英語版)と婚約して副帝と宣言された[4][6]。ゼノンは471年にコンスタンティノープルの市民を扇動してアスパルとアルダブリウスを襲わせ[注 2]、カルケドンの聖エウフェミア教会へ逃れたアスパルとアルダブリウスを殺害して競争者を取り除いた。
474年にレオ1世が死ぬと、ゼノンとレオ2世の親子が新たに皇帝を名乗ったが、レオ2世は同年冬に死亡した[7]。 即位した当初からゼノンの地位は不安定だった[8]。コンスタンティノープルの市民はイサウリア人を野蛮人とみなしていたのでイサウリア人のゼノンに対して好感を持っていなかったし[8][9][注 3]、貴族層もゼノンを成り上がり者として軽蔑していた[8]。軍隊にもゼノンが殺害したアスパルと結びつきが強いゴート人の兵士が多かった[8]。
即位後
バシリスクスらによる反乱(475年)(英語版