セントラルパシフィック鉄道
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セントラル・パシフィック鉄道
Central Pacific Railroad

最初の大陸横断鉄道。赤線部がセントラル・パシフィック鉄道の建設した部分。
路線範囲カリフォルニア州サクラメント - ユタ州オグデン
運行1861年6月28日–1885年4月1日[1]
後継サザン・パシフィック鉄道
軌間1,435 mm(標準軌
本社カリフォルニア州サクラメントサンフランシスコ
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蒸気機関車「スタンフォード知事(英語版)」ネバダ州ヴェルディ(英語版)を流れるトラッキー川(英語版)、セントラル・パシフィック鉄道がこの現場に1868年に到達した時点で、チャールズ・クロッカー(英語版)は一切れの紙を帽子から取り出し、ジュゼッペ・ヴェルディの名前を見たため、この町はイタリアのオペラ作曲家の名前にちなんで名付けられた[2]セントラル・パシフィック鉄道のトレッスル橋、1869年頃、カールトン・ワトキンス(英語版)撮影「ザ・ラスト・スパイク」(トーマス・ヒル、1881年)

セントラル・パシフィック鉄道(セントラル・パシフィックてつどう、英語: Central Pacific Railroad、略称CPRR)は、北アメリカで最初の大陸横断鉄道を西側から完成させるために、1860年代に西海岸から東へ向けてアメリカ合衆国カリフォルニア州からユタ州までの鉄道を建設したかつての鉄道会社である。現在はユニオン・パシフィック鉄道の一部である。

19世紀には大陸横断鉄道の建設提案が数多くなされていたが、奴隷制度を巡る論争に政治的エネルギーが費やされていたため、うまくいかなかった。アメリカ合衆国南部アメリカ連合国を形成して分離したことで、共和党の進歩派がアメリカ合衆国議会の支配権を握った。彼らは、政府が鉄道債で資金を供給するという形で鉄道の建設を認める法案を成立させた。この鉄道債は後に、全額が利子つきで返済された[3]。政府と鉄道会社は、鉄道の建設による地価の上昇利益を共有した[4]。鉄道の建設によって、政府は「郵便物・兵力・弾薬・公共備蓄の経済的で安全かつ迅速な輸送」を確保することになった[5]
承認と建設

セントラル・パシフィック鉄道は、セオドア・ジュッダ(英語版)が計画し、1862年に議会で承認された。「ビッグ・フォー(英語版)」(自分たちでは「仲間たち」と呼んでいた)が資金を出し、建設を進めた。4人はサクラメントの実業家、リーランド・スタンフォード、コリス・ハンチントン(英語版)、チャールズ・クロッカー(英語版)、マーク・ホプキンズ(英語版)である。クロッカーが建設を担当した。建設作業員は12,000人におよぶ中国人移民で構成され、1868年時点では全体の80パーセントが中国人であった[6][7]。最初のレールは1863年に敷設された。西から建設された線路は、東からのユニオン・パシフィック鉄道ユタ州プロモントリー(英語版)においてつながり、最後の犬釘ゴールデン・スパイク」が1869年5月10日に打ち込まれた[8]。海岸から反対側の海岸へ、列車で8日間で移動できるようになり、従来の何か月もかかる海路や、馬車に依る長くて危険な陸路を置き換えることになった。

1885年にセントラル・パシフィック鉄道をサザン・パシフィック鉄道が借り受けた。法的にはセントラル・パシフィック鉄道は1959年までは企業として存続しており、この年にサザン・パシフィック鉄道に公式に吸収合併された。この間、1899年にCentral Pacific Railwayとして再編されている。セントラル・パシフィック鉄道が建設した線路は、1996年にサザン・パシフィック鉄道を買収したユニオン・パシフィック鉄道が所有している。

ユニオン・パシフィック鉄道からセントラル・パシフィック鉄道(サザン・パシフィック鉄道)へと通じる本線は、オマハからサンフランシスコ湾へと至る、歴史的なオーバーランド・トレイル(英語版)に沿っている。
資金負担セントラル・パシフィック鉄道の第一抵当証券の広告(1867年)

鉄道の建設資金は主に、1862年の太平洋鉄道法(英語版)の5章の規定で承認された、30年期限6パーセント利率の米国債によって賄われた。シエラネバダ山脈の麓、カリフォルニア州の地質学者ジョサイア・ホイットニーがシエラネバダ山脈の地質的な始まりであると認定した、カリフォルニア州ローズビルの近郊の指定された地点より西側では、完成した線路の1マイルに付き16,000ドルの債券発行が行われた[9]。また太平洋鉄道法11章の規定で、山脈を横断する間、および2つの山脈の間のうち上限300マイル(480キロメートル)までは、1マイル当たりの発行額を3倍(48,000ドル)にすることができ、および2つの山脈の間では2倍(32,000ドル)にすることができた[10]。鉄道の線路およびそのすべての付属物を抵当としていたこの米国債は、会社により期限までに利子を含めて全額が償還された。

1864年の太平洋鉄道法修正(会期別法令集13巻)の10章で、これに加えて会社は自社で「第一抵当証券」を、米国債と同額まで発行することが認められた[11]。この会社発行の証券は、当初の政府発行債券に比べて優先権が設定されていた[12]。地方や州の政府も資金調達を支援したが、サンフランシスコ市およびサンフランシスコ郡の支援は積極的ではなかった。このことが初期の建設作業をかなり遅らせることになった。1862年の法律の3章では、鉄道が都市内を走る場所と川を横断している場所を除いて、1マイルの敷設ごとに10平方マイル(26平方キロメートル)の土地を与えることになっていた。この土地供与は、1マイルを5区間に分け、各区間ごとに0.2マイル(320メートル)×10マイル(16キロメートル)の土地を鉄道のどちらか側に割り当てることで行われた[13]。この土地供与は1864年の法律で1マイル当たり20平方マイル(52平方キロメートル)へと倍増された。1865年にサンフランシスコが発行した太平洋鉄道債、1863年に承認されたが、サンフランシスコ郡監督委員会の反対により、発行が2年遅れた

最終的に太平洋への鉄道は、サンフランシスコのベイエリアに利益をもたらすことになったのだが、1863年から1865年ごろには、サンフランシスコ市およびサンフランシスコ郡は鉄道への資金提供を渋っていた。スタンフォードがカリフォルニア州知事だった1863年4月22日に、「サンフランシスコ市およびサンフランシスコ郡監督委員会に対して、ウェスタン・パシフィック鉄道会社およびカリフォルニア・セントラル・パシフィック鉄道会社の証券を100万ドル引き受け、そのためおよび関連する事項に対して支出を行うことを承認する法律」を通過させた(この法律は1864年4月4日に通過した通称「妥協法」の5章で修正された)。1863年5月19日にサンフランシスコ市およびサンフランシスコ郡の選挙人たちは、非常に議論を呼んだ特別投票において6,329対3,116でこの案件を承認した。

市と郡が債券を発行してこの出資を行う件について、市長のヘンリー・クーン(英語版)および郡の書記官のウィルヘルム・ローウィが債券に裏書きすることを拒絶したため、2年遅れることになった。この件は、彼らに裏書きを命じようと、法廷へ持ち込まれた。1864年にカリフォルニア州最高裁判所は職務執行令状で彼らに裏書きすることを命じ、1865年にローウィに対する判決でも債券を裏書きして発行するように命じた。市と郡に対して債券発行と出資をさせる1863年の法律は、「ダッチフラット詐欺」と言われるようになった。セントラル・パシフィック鉄道は、すでに同社が支配しているダッチフラット馬車道と連絡するためにダッチフラットまでだけ鉄道を敷こうとしていると批判者が主張したためである。
博物館および保存物セントラル・パシフィック鉄道の当初の副技師長L.M.クレメント[14](左)および主任技師長T.D.ジュッダ(右)


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